残り三十通の文通が終わったら、私はこの世界から消えますので――どうか、最後まで私を知らないでいてください
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「君には心がない」
エドワード・レイヴンクロフト侯爵嫡男の声が、薔薇園に冷たく響き渡った。
私は微動だにしなかった。できなかった、というのが正確かもしれない。五年間の婚約期間で培った「完璧な令嬢」の仮面は、こんな時にこそ私を守ってくれる。
(心がない、ですって?)
内心で嗤う。誰のために感情を殺してきたと思っているの。貴方の前で泣けば「はしたない」と眉をひそめられ、笑えば「軽薄だ」と窘められた。だから私は、何も表に出さないことを選んだのに。
「エドワード様、私が何かご不興を買うようなことを——」
「とぼけないでくれ」
彼の紫紺の瞳が、氷のように私を射抜く。かつてこの瞳に見つめられると胸が高鳴ったものだ。今はただ、その冷たさが可笑しくて仕方がない。
「アメリアが全て話してくれた。君が彼女にどんな仕打ちをしてきたか」
視線の先で、義妹が可憐な顔を涙で濡らしていた。蜂蜜色の巻き毛を震わせ、まるで怯える小動物のように。
(その涙、何滴目かしら。さっきからずいぶん器用に流しているわね)
「お姉様……私、本当は言いたくなかったの。でも、エドワード様があまりにも可哀想で……」
すすり泣きながら、アメリアがエドワードの腕にすがりつく。その仕草の、なんと手慣れていることか。
「リゼット。この婚約は本日をもって破棄する」
エドワードが宣言した。その声には一片の迷いもない。
「私はアメリアと婚約する。君は実家に戻るがいい」
周囲でざわめきが起こった。社交界の華と謳われた侯爵嫡男と、「氷の令嬢」と揶揄される伯爵令嬢の婚約破棄。これは格好の噂話になるだろう。
私は深く息を吸い、そして——微笑んだ。
「承知いたしました、エドワード様」
その瞬間、彼の眉がわずかに動いた。驚き? それとも苛立ち? どちらでもいい。
「……それだけか」
「他に何か?」
「謝罪の一つもないのか。アメリアにしたことへの」
私は義妹を見た。涙に濡れた翡翠の瞳と、目が合う。その奥で、冷たい勝利の光が一瞬だけ瞬いた。
(ああ、そう。貴女はずっとこれが欲しかったのね)
私が持つもの全てを。父の愛情も、社交界での評判も、そしてこの婚約者までも。
「アメリア様」
私は義妹に向き直った。
「どうか末永くお幸せに」
それだけ言って、私は踵を返した。背後で誰かが「なんて冷たい」と囁くのが聞こえる。
(ええ、そうよ。私は冷たいの。心がないの)
だって、そうでなければ——今この瞬間、私は崩れ落ちてしまうから。
薔薇園を抜け、人目につかない回廊に辿り着いた時、ようやく私の足は止まった。
壁に手をついて、息を整える。指先が震えていた。
五年間。
五年間、私は完璧な婚約者であろうとした。彼の望む令嬢であろうとした。感情を殺し、笑顔を作り、一度だって彼を困らせまいと——
「……馬鹿みたい」
声が掠れた。泣いてなどいない。泣くものか。
私には、泣く資格すらないのだから。
◇◇◇
実家に戻った私を待っていたのは、予想通りの冷遇だった。
「婚約破棄ですって? まあ、なんて恥知らずな」
継母マルグリットの声が、応接間に響く。優雅な物腰の奥で、琥珀色の瞳が値踏みするように私を見ていた。
「侯爵家との縁談を壊すなんて。この家の名誉をなんだと思っているの」
「申し訳ございません、お義母様」
頭を下げながら、私は内心で数を数えていた。これで今日何度目の謝罪だろう。十二回? 十三回?
「謝って済む問題ではありませんよ」
継母の扇が、苛立たしげに揺れる。
「アメリアがエドワード様と婚約したそうですね。ええ、聞いていますとも。あの子は本当に出来た娘ですこと。姉の尻拭いまでさせて、貴女は恥ずかしくないの?」
(尻拭い、ですか)
私の婚約者を奪っておいて、よくそんな言葉が出てくるものだ。
「……」
「ヴィクトル、貴方からも何か言ってやってください」
継母が、窓辺に立つ父を振り返る。
父——ヴィクトル・クレールフォン伯爵は、私と同じ青灰色の瞳で虚空を見つめていた。その瞳に、私は映っていない。いつものことだ。
「……好きにしろ」
それだけ言って、父は部屋を出て行った。
(お父様)
呼び止める言葉は、喉の奥で消えた。幼い頃から何度も飲み込んできた言葉。今さら声にしたところで、届くはずもない。
「まったく、役立たずが」
継母の吐き捨てるような声。
「今日から離れの塔で暮らしなさい。来客がある時に、貴女のような疫病神が目に入っては困りますから」
◇◇◇
離れの塔。
屋敷の最も奥、庭園の外れにぽつんと立つ古い石造りの塔。かつては物置として使われていたそこが、私の新しい住処になった。
「お嬢様……」
セシリアが、私の荷物を運び入れながら唇を噛んでいる。赤みがかった茶色の三つ編みが、肩で揺れていた。
「大丈夫よ、セシリア」
私は窓辺に立ち、外を見下ろした。庭園が一望できる。美しい眺めだ。牢獄としては上等な部類だろう。
「でも、こんな場所……暖炉も満足にないし、お食事だって——」
「私がいると、お義母様の機嫌が悪くなるでしょう? ここなら顔を合わせずに済むわ」
皮肉を言ったつもりだったのに、セシリアの丸い茶色の瞳がますます潤んでしまった。
「お嬢様は悪くないのに……」
「セシリア」
私は振り返り、彼女の頬に触れた。
「泣かないで。貴女が泣くと、私まで泣きたくなるから」
嘘だ。私はもう、泣き方を忘れてしまった。
「……お嬢様のそういうところが」
「ん?」
「なんでもありません」
セシリアは目元を拭い、いつもの芯の強い表情に戻った。
「私、絶対にお嬢様をお守りしますから。何があっても、お傍を離れません」
「ありがとう」
この屋敷で、私の味方はこの子だけだ。幼い頃に孤児院から引き取った、たった一人の。
その夜、私は窓辺に座り、月を眺めていた。
(これから、どうしよう)
婚約破棄された令嬢の末路など、たかが知れている。修道院に入るか、どこか遠い領地に追いやられるか。いずれにせよ、社交界に居場所はもうない。
(……まあ、いいか)
元から欲しかったものなど、何も手に入らなかったのだ。今さら失うものを惜しんでも仕方がない。
ふと、窓枠に何かが挟まっているのに気づいた。
「手紙……?」
封蝋もない、簡素な封筒。差出人の名前はどこにも記されていない。
怪訝に思いながら開くと、そこには美しい筆跡でこう綴られていた。
『貴女の孤独を知っています。
もしよければ、返事をください。
この窓辺に置いておいてくだされば、届きます。
——L』
私はしばらく、その短い文面を見つめていた。
悪戯だろうか。それとも、何かの罠?
(孤独を知っている、ですって)
誰が。どうして。
けれど——不思議と、その文字を見ていると胸の奥が温かくなった。
ペンを取り、便箋に向かう。
『貴方は誰ですか?
どうして私の孤独を知っているの?
——R』
窓辺に置いて、眠りについた。
翌朝、目覚めた時——そこには、新しい手紙が届いていた。
◇◇◇
『R様
貴女が誰かは存じています。けれど、私が誰かは申し上げられません。
ただ一つだけ、お約束しましょう。
この文通は三十通で終わりにします。
三十通の間だけ、貴女の話し相手になることをお許しください。
それ以上は望みません。
——L』
奇妙な申し出だった。
三十通。なぜその数なのかは分からない。けれど、期限があるというのは不思議と安心できた。永遠を約束されるより、終わりが見えている方が信じられる。
私は返事を書いた。
『L様
貴方のことを知らないまま、文通を続けるのですか?
奇妙な方ですね。
けれど……少しだけ、話し相手が欲しかったのは事実です。
三十通だけ。それを守ってくださるなら、お付き合いしましょう。
——R』
◇◇◇
文通は週に二度のペースで続いた。
火曜日と金曜日の朝、窓辺には必ず手紙が届いている。どうやって届けているのか分からない。塔は三階建てで、窓には格子がある。普通なら入り込める隙間などないはずなのに。
(まるで魔法みたい)
そう思いながら、私は六通目の手紙を開いた。
『R様
先日の手紙で、貴女は「自分には何も取り柄がない」と書いておられましたね。
失礼を承知で申し上げます。それは嘘です。
貴女は聡明で、観察眼が鋭く、誰よりも周囲に気を配れる人だ。
ただ、それを表に出さないだけ。
いえ——出せないのでしょう。
貴女は冷たいのではない。優しすぎるから、自分を守っているだけなのだと、私は思います。
——L』
便箋を持つ手が、震えた。
(どうして)
どうしてこの人は、会ったこともないのに私のことを分かるの?
誰にも見せたことのない私の本質を、どうして言い当てられるの?
目頭が熱くなる。泣くものか、と思った。けれど、文字が滲んで見えた。
その日、私は長い返事を書いた。
継母に「はしたない」と言われ続けたこと。父に無視され続けたこと。完璧であろうとすればするほど、「心がない」と言われ続けたこと。
誰にも話したことのない、心の奥底にしまっていた痛み。
『——だから私は、感情を見せることが怖いのです。
見せた瞬間、また傷つけられるのではないかと。
こんなことを書いて、貴方を困らせてしまったかもしれません。
忘れてください。
——R』
次の手紙は、いつもより早く届いた。
『R様
忘れません。忘れられるはずがない。
貴女の痛みを、私に預けてください。
せめてこの三十通の間だけでも、貴女が本音を吐き出せる場所でありたい。
私は貴女を傷つけない。
これだけは、誓います。
——L』
私は——生まれて初めて、声を上げて泣いた。
◇◇◇
十二通目の手紙を受け取った頃、屋敷に珍しい来客があった。
「リゼット様、エドワード様がお見えです」
セシリアの報告に、私は眉を上げた。
「……エドワード様が?」
「はい。すぐに会いたいと」
塔から屋敷の応接間まで、私はゆっくりと歩いた。急ぐ理由などない。婚約を破棄した相手に、何を言うことがあるというのか。
応接間の扉を開けると、エドワードが立っていた。漆黒の髪、紫紺の瞳。相変わらず端正な顔立ちだが、どこか憔悴しているように見えた。
「リゼット」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。いけない。もう、この人に心を乱される筋合いはないのに。
「エドワード様。本日はどのようなご用件で」
「……君に、頼みがある」
頼み。かつての婚約者に、今さら何の頼みがあるというの。
ソファに腰を下ろしながら、私は内心で身構えた。
「アメリアのことだ」
案の定、義妹の名前が出た。
「彼女が……実は詐欺組織と繋がっているという噂がある」
「……」
「社交界で密かに囁かれている。アメリアの背後には、貴族を食い物にする一味がいると。私は——」
彼の声が、わずかに震えた。
「私は騙されていたのかもしれない。君を傷つけてまで選んだ相手に」
皮肉な話だ、と思った。あれほど私を「心がない」と断じた人が、今さら疑念を抱いている。
「それで、私に何をお望みですか」
「君の協力が欲しい。君は聡明だ。アメリアの真意を見抜く力がある」
「買いかぶりですわ」
私は静かに首を振った。
「エドワード様。私はもう、貴方の道具ではありません」
彼の顔が強張った。
「道具だと? 私は君をそんな——」
「ええ、そうでしょうとも」
立ち上がる。もう、この場にいる意味はない。
「貴方は私を必要な時だけ呼び出し、必要でなくなれば捨てた。五年間、ずっとそうだった」
「リゼット——」
「アメリアの件は、ご自分でお調べになってください。私は関わりたくありません」
踵を返す。背後から名前を呼ばれたが、振り返らなかった。
◇◇◇
その夜、私は震える手で手紙を書いた。
『L様
今日、かつての婚約者に会いました。
彼は私に協力を求めてきました。自分が選んだ相手に裏切られたかもしれない、と。
可笑しいでしょう? 私を捨てておいて、今さら助けを求めるなんて。
断りました。当然です。
……でも、少しだけ胸が痛みました。
彼を憎めたら、どんなに楽だろうと思います。
——R』
翌朝届いた返事は、いつもより長かった。
『R様
貴女が彼を憎めないのは、貴女が優しいからです。
五年間、どれほど辛くても、貴女は彼のために尽くした。その記憶は簡単には消えない。
憎むことも、許すことも、貴女が決めればいい。
ただ、一つだけ聞かせてください。
もし彼に……本当の事情があったとしたら、貴女はどうしますか?
たとえば——貴女を守るために、貴女を傷つけるしかなかったのだとしたら。
愚かで、不器用で、最低の選択だと分かっていても、そうするしかなかったのだとしたら。
貴女は、許せますか?
……いえ、忘れてください。
これは私の勝手な仮定です。
——L』
私は何度もその手紙を読み返した。
(本当の事情?)
(貴女を守るために、貴女を傷つける?)
不思議な言葉だった。まるで——Lが、何かを知っているかのような。
窓の外で、夕暮れの鳥が鳴いた。
◇◇◇
二十通目の手紙を書き終えた時、私は自分の変化に気づいていた。
Lからの手紙を待つ時間が、一日で最も楽しみになっていた。彼の言葉を読む時、胸が温かくなった。返事を書く時、自然と口元が緩んでいた。
(私は……Lに惹かれている)
認めたくなかった。顔も名前も知らない相手に、心を奪われるなんて。
けれど、事実だった。
『L様
残り十通になりましたね。
この文通が終わったら、貴方はどうするのですか?
私は……正直に言えば、終わってほしくないと思っています。
貴方との手紙の時間が、今の私の支えです。
——R』
返事は、いつもより長く時間がかかった。三日後にようやく届いた手紙は、インクの跡が何度も書き直されたように滲んでいた。
『R様
終わってほしくない、と言ってくださったこと。
それがどれほど嬉しいか、貴女には分からないでしょう。
けれど——私の正体を知れば、貴女は私を憎むかもしれない。
いえ、きっと憎む。当然の報いです。
それでも私は、この三十通を後悔していません。
貴女の本当の姿を知ることができた。貴女の言葉に触れることができた。
それだけで、私は十分です。
——L』
私の手が、震えた。
(Lの正体を知れば、憎む?)
なぜ。どうして。
これまでの手紙を読み返す。Lは何度も、私しか知らないはずのことに言及していた。
幼い頃に庭で転んだ時のこと。初めての舞踏会で緊張していた時のこと。そして——
『三十日あれば、人は本当の自分を見せられる』
私が昔、誰かに言った言葉。
誰に言ったのだったか。もう忘れてしまったけれど、確かに言った記憶がある。
(Lは……私の過去を知っている人?)
心臓が早鳴りする。
(まさか)
その可能性が頭をよぎり、私は首を振った。ありえない。ありえるはずがない。
けれど、二十五通目の手紙が届いた時——私の不安は、確信に変わりつつあった。
『R様
覚えていますか。貴女が十五歳の冬、私に言った言葉を。
「三十日あれば、人は本当の自分を見せられる」
私はずっと、その言葉を覚えていました。
だから三十通なのです。
三十の手紙で、私は貴女に本当の私を見せたかった。
——L』
便箋が、手から滑り落ちた。
十五歳の冬。
私がその言葉を言った相手は、一人しかいない。
婚約したばかりの、あの人——
◇◇◇
『L様——いえ、エドワード。
貴方なのですか?
貴方が、Lなのですか?
返事をください。今すぐに。
——R』
翌朝、窓辺に届いていたのは——三十通目の手紙だった。
震える手で、封を開く。
『R——いえ、リゼット。
そう、私がLです。
全てを話す時が来ました。
今日の夕暮れ、塔の下で待っています。
会いに来てください。
私の罪を、貴女自身の目で裁いてください。
——L』
◇◇◇
太陽が西の空に沈みかける頃、私は塔の階段を降りていた。
一段一段、足が重い。会いたいような、会いたくないような。怒りと、期待と、そして——恐れが入り混じった複雑な感情が、胸を締め付ける。
塔の扉を開けると、夕焼けの光が差し込んできた。
その光の中に、彼が立っていた。
漆黒の髪。紫紺の瞳。あの日、私を「心がない」と切り捨てた男。
「……来てくれたんだな」
エドワードの声は、かすれていた。
「貴方だったのね」
私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「最低ね。私を捨てておいて、文通で私の本音を引き出すなんて。何が目的だったの? 私を笑いものにするため?」
「違う」
彼が一歩、近づく。
「話を聞いてくれ、リゼット。全部説明する」
「説明? 今さら何を——」
「婚約破棄は、君を守るためだった」
足が止まった。
「……何ですって?」
「アメリアの背後にいる組織は、最初から君を狙っていた」
エドワードが、苦しげに目を伏せる。
「クレールフォン家の財産と、君という『弱点』を使って、私の家を乗っ取ろうとしていた。君が私の婚約者である限り、君は危険だった」
「だから……切り捨てた?」
「君を組織の射程から外すには、完全に私から引き離す必要があった。婚約破棄し、『心がない令嬢』だと公に断じることで——君を『利用価値のない女』に見せかけた」
頭が真っ白になった。
「嘘……」
「嘘じゃない。全部——全部、君を守るためだった」
エドワードが、私の前に跪いた。
あの傲慢な侯爵嫡男が。「鉄面皮の貴公子」と呼ばれた男が。膝をつき、私を見上げている。
「最低のやり方だと分かっている。君を傷つけずに守る方法を、私は思いつけなかった」
「だったら——だったらどうして説明してくれなかったの!」
気づけば、叫んでいた。
「私を信じて、打ち明けてくれれば——」
「打ち明けていたら、君は必ず私を助けようとしただろう」
彼の瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「君がどれほど優しいか、私は知っている。だから——君を危険に晒すわけにはいかなかった」
涙が頬を伝った。いつの間にか、泣いていた。
「文通を……文通を始めたのは……」
「君の本心を知りたかった」
彼の声が、震える。
「離れてしまった君が、どんな想いでいるのか。私を憎んでいるのか。もう二度と、許してはくれないのか……」
「ずるいわ」
私は、しゃくり上げながら言った。
「こんなやり方……最低よ、エドワード……」
「知っている」
彼が立ち上がり、私の頬に手を伸ばす。涙を拭う指先が、優しく温かかった。
「だから——一生をかけて償わせてくれ」
夕焼けの光の中で、彼は私を抱きしめた。
五年間、一度もしてくれなかった抱擁。求めても与えられなかった温もり。
「愛している、リゼット」
彼の声が、耳元で震えた。
「最初から——出会った日から、ずっと」
私は、その胸に顔を埋めた。
許せない。まだ許せない。でも——
「……貴方のやり方は、本当に最低よ」
「ああ」
「勝手に決めて、勝手に傷つけて、勝手に守ったつもりになって」
「ああ」
「もう二度と——私に黙って、何かを決めないで」
「約束する」
彼の腕が、強く私を抱きしめる。
「もう二度と、君を手放さない」
塔の窓から、最後の夕陽が差し込んでいた。三十通の文通が終わり——新しい物語が、始まろうとしていた。
◇◇◇
アメリア一派の失墜は、思ったより早く訪れた。
エドワードが集めていた証拠が公開され、詐欺組織の全容が明らかになったのだ。アメリアと継母マルグリットは社交界から追放され、関係者は次々と逮捕された。
「お嬢様! 大変です!」
セシリアが息を切らせて駆け込んできたのは、それから一週間後のことだった。
「旦那様が——伯爵様が、お嬢様に会いたいと……」
父が、私に?
応接間に向かうと、父は窓辺に立っていた。相変わらず虚ろな——いや、違う。今日の父の瞳には、何か別のものが宿っていた。
「リゼット」
父が振り返る。その顔には、深い皺が刻まれていた。
「私は……」
言葉が詰まる。父が言葉に詰まるところを、初めて見た。
「私は、取り返しのつかないことをした」
「お父様……」
「お前は——お前の母に、よく似ていた」
父の声が、かすかに震える。
「見るたびに、あの人を思い出した。それが……辛くて、お前から逃げた。お前を守るべき父親が、お前から逃げ続けた」
私は黙って聞いていた。
「マルグリットたちの仕打ちも……見て見ぬふりをした。愚かだった。許してくれとは言わない。ただ——」
父が、私を見た。青灰色の瞳——私と同じ色の瞳が、涙に濡れていた。
「お前の幸せを、願っている。それだけは……信じてほしい」
私は長い間、何も言えなかった。
許せるかどうか、まだ分からない。十数年の孤独は、簡単には消えない。
けれど——
「……ありがとうございます、お父様」
一歩だけ、近づいた。
「いつか——いつか、ゆっくりお話しましょう。お母様のことも」
父の顔が、歪んだ。泣いているのか、笑っているのか分からない表情で、父は何度も頷いた。
◇◇◇
再婚約の発表は、翌月の舞踏会で行われた。
「リゼット・クレールフォン嬢と、エドワード・レイヴンクロフトの婚約を発表いたします」
会場がざわめく。当然だろう。一度破棄された婚約が復活するなど、前代未聞だ。
けれど私は、堂々と彼の隣に立った。
「氷の令嬢が、戻ってきたわ」
「でも何か——雰囲気が違わない?」
ひそひそ声が聞こえる。私は内心で笑った。
(ええ、変わったわよ。貴方たちの陰口なんて、もう気にならないもの)
エドワードが、私の手を取る。
「緊張しているか?」
「少しだけ」
「……私はずっと緊張している」
「え?」
「君が隣にいると、まともに話せなくなる。五年間ずっとそうだった」
(それで、あんなに無愛想だったの……?)
私は思わず笑ってしまった。声を上げて、周囲の目も気にせずに。
「……笑うな」
「ごめんなさい。でも——貴方って本当に不器用なのね」
「自覚はある」
エドワードの頬が、わずかに赤くなる。こんな表情、見たことがなかった。
「これからは、ちゃんと言葉にする」
「何を?」
「……全部だ」
彼が、私の額に口づけた。会場がさらにざわめいたが、もう気にならなかった。
◇◇◇
屋敷に戻ると、窓辺に手紙が置かれていた。
見覚えのある封筒。Lの——いえ、エドワードの筆跡。
開くと、短い文章が綴られていた。
『リゼット
三十一通目の手紙です。
これからは、顔を見て話しましょう。
けれど時々は——こうして手紙を書いてもいいですか?
貴女に伝えたいことが、まだたくさんあるのです。
愛を込めて——E』
私は微笑んで、ペンを取った。
『エドワード
三十一通目への返事です。
ええ、構いませんよ。
ただし条件があります。
今度は——顔を見ながら読んでください。
私の表情を見れば、言葉以上のものが伝わるでしょう?
……少しは、感情を表に出せるようになりましたから。
貴方の——R』
窓の外では、朝陽が昇り始めていた。
三十通の文通が終わり、新しい物語が始まる。
今度は——顔を見て、言葉を交わしながら。
【完】




