第5話:『レンズ越しの虚像と、一粒の真実』
嵐の到来:自称・美食家YouTuber
ある日の夕暮れ、静寂を破って派手なシャツを着た男が入ってきました。
手には自撮り棒と高性能なカメラ。彼は登録者数万人のグルメ系YouTuber、ゼンジでした。
「ここが噂の『魔法のおにぎり屋』? 雰囲気あるねぇ、映えるわ。ねえ店主さん、一番高いやつと、握ってるシーン撮らせてよ。宣伝してあげるからさ」
彼はカウンターに座るなり、まだ注文もしていないのにカメラを回し始めます。一輪挿しの紫陽花も、土鍋の重厚な佇まいも、彼にとっては単なる「コンテンツ」でしかありませんでした。
徳さんの「一喝」と、八恵の沈黙
隅で静かにお茶を飲んでいた徳さんが、鋭い視線を向けます。
「おい、小僧。ここは見せ物小屋じゃねぇ。レンズ越しじゃあ、この店の米の『ため息』は聞こえねぇぞ」
ゼンジは鼻で笑います。「じいさん、今は情報の時代だよ。食わなくても、画面越しに味が伝わるのがプロの仕事なの」
八恵は、カメラを向けられても眉一つ動かしません。ただ、静かに言いました。
「申し訳ありません。うちは撮影禁止ではありませんが、『心がない方』には、お出しできるおにぎりがないんです」
八恵の「教え」:空っぽのレンズへ
ゼンジが「金なら払う」と憤慨する中、八恵は自分だけのノートを開きます。そこに書き加えたばかりの、新しい教えを反芻しました。
『記録する者に、記憶は宿らない。
画面を閉じ、掌の重みを感じよ。
魂を空っぽにして初めて、お米の命があなたに宿る』
八恵は、あえて「おにぎり」を握りませんでした。
彼女が差し出したのは、土鍋から茶碗に直接よそっただけの、湯気が立つ**「白いごはん」**でした。
儀式:カメラを置かせる魔法
「……なんだよこれ、おにぎり屋なのに握ってないのか?」
「はい。今のあなたには、何かに包まれたものは届かない。まずはこの熱を、素手で受け止めてみてください」
茶碗から立ち昇る、圧倒的な炊きたてのご飯の香り。レンズが曇り、画面が白く染まります。
「あ……」
ゼンジは思わずカメラを置き、布巾でレンズを拭こうとして、その手を止めました。
そこには、ただ純粋に「熱い」という、情報の介在しない現実があったからです。
八恵は、彼がカメラから手を離した瞬間を見逃さず、今度は迷いなく、三度の所作で小さなおにぎりを握りました。
.結末:本当の「いいね」
ゼンジが、カメラを止めたままそのおにぎりを口にします。
情報の海で泳ぎ、常に「誰かの評価」を気にしていた彼の脳に、土鍋ごはんの力強い甘みが直接突き刺さりました。
「……編集、できないな。この味は」
彼はポツリと呟きました。
後日、彼のチャンネルに動画は上がりませんでした。代わりに、SNSにはたった一行だけ、彼のアカウントから投稿がありました。
『今日、本当の意味で「ごちそうさま」を覚えた』
八恵のノート・追記
『レンズ越しの客へ』
――光の粒を集めても、お腹は膨れない。
美味しさを「伝える」ことに必死な者は、美味しさを「味わう」ことを忘れている。
記録を捨てて記憶を刻む。それがおにぎりを食べる唯一の作法である。




