第1話:『結び直しの塩むすび』
.訪れた客:誠一
30代後半。中堅企業の社員。
真面目で、家族のために必死に働いている。
家では「パパ」と呼ばれ、自分も妻を「ママ」と呼ぶ。
「愛している」と言いたいのに、口から出るのは「ゴミ出しといたよ」「明日の夕飯いらない」といった生活の報告ばかり。
八恵さんの問いかけと、土鍋の音
八恵さんは、誠一の頼りない背中を見て、黙って土鍋を火にかけます。
「土鍋の火をつけたばかりですから、少しお時間がかかります。
……今日は、どんなお話をおかずにしましょうか?」
誠一は、ポツリポツリと話し出します。
「昔は、ただ一緒に歩いているだけで楽しかったんです。でも今は、妻の顔を見ると、頼みそびれた家事がないか探ってしまう。彼女も、僕を夫ではなく『同居している協力者』としか見ていない気がして……」
土鍋の変化と心の重なり
話が進むにつれ、土鍋からシュシュッと勢いよく湯気が噴き出します。
それは、誠一が心に溜め込んでいた「寂しさ」や「情熱」が溢れ出したかのようです。
「沸騰してきましたね。お米が中で、一生懸命にぶつかり合って、馴染もうとしている音ですよ」
八恵さんの言葉に、誠一は「ぶつかることさえ避けていた自分」に気づきます。
八恵さんが握るおにぎり:『ただの、おむすび』
炊きあがったばかりの、透き通るような白飯。
八恵さんが差し出したのは、あえて**具のない「塩むすび」**でした。
八恵さんの言葉:
「色々詰め込みすぎて、お米本来の味が分からなくなっていたのかも。
おにぎりも夫婦も、最初はただの『個』と『個』。
それを、温かいうちにギュッと結ぶ。ただそれだけで、十分美味しいんですよ」
誠一の気づき:
一口食べた瞬間、誠一の目に涙が浮かびます。
複雑な理由をつけて悩んでいたけれど、自分が求めていたのは「パパ」としての役割ではなく、ただ彼女の手のぬくもりを、もう一度「結びたい」という単純な願いだったことに。
物語の結末(余韻)
誠一は店を出る時、八恵さんに「持ち帰りでもう一つ、握ってもらえますか」と頼みます。
「具は何にします?」と聞く八恵さんに、誠一は照れくさそうに答えます。
「……妻が好きな、少し酸っぱい梅干しを。
今日は『ママ』じゃなくて、名前で呼んで渡してみようと思います」
手には、八恵が丁寧に竹皮で包んでくれた、まだほんのりと温かいおにぎりが一つ。
再会:名前を呼ぶ、その一歩
誠一が玄関のドアを開けると、いつもの見慣れた光景が広がっていました。
リビングの隅には出しっぱなしのおもちゃ、ダイニングテーブルには明日出す予定の幼稚園の書類。そして、キッチンで背中を向けて洗い物をしている、妻の恵美。
「あ、パパ。おかえり。ご飯、レンジにあるから」
顔も見ずに放たれたその言葉は、いつもの「業務連絡」でした。
以前の誠一なら「ああ、わかった」とだけ答えて、自分の部屋へ逃げていたはずです。でも、今の彼の掌には、八恵が握ったあの温もりが残っていました。
「……恵美」
不意に名前を呼ばれ、水の音が止まります。
恵美が驚いたように肩を揺らし、ゆっくりと振り返りました。その表情には、戸惑いと、少しの警戒心が混じっています。
「……なに? 急に」
誠一は、喉の奥が熱くなるのを感じながら、竹皮の包みを差し出しました。
「これ、帰り道に……。すごく美味しいおにぎり屋を見つけて。恵美の好きな、酸っぱい梅干しが入ってるんだ」
恵美は呆気にとられたように、その包みを見つめました。
「おにぎり? 私に?」
「ああ。……毎日、ありがとう。パパとしてじゃなくて、僕が、君に食べてほしくて」
誠一の不器用な、でも真っ直ぐな視線。
恵美は濡れた手をエプロンで拭き、おずおずと包みを受け取ります。紐を解くと、中から現れたのは、八恵が土鍋で炊き上げた、真っ白でふっくらとしたおにぎり。
一口、恵美がそれを口に運びます。
土鍋ごはんの力強い甘みと、目が覚めるような梅干しの酸味。
それは、二人がまだ「パパとママ」になる前、よく公園で分け合って食べたお弁当の味に、どこか似ていました。
「……すっぱい」
恵美の口から、小さく笑みが漏れました。
「ね、。本当に、昔みたいに酸っぱいね、誠一さん」
久しぶりに呼ばれた自分の名前に、誠一の胸が震えます。
「パパ」でも「ママ」でもない、ただの男と女に戻った瞬間でした。
キッチンに漂うお米の香りが、二人の間に積もっていた見えない壁を、静かに溶かしていくようでした。
結び:八恵の店では
その頃、『ひとすくい』では、八恵が使い終わった土鍋を丁寧に拭きあげていました。
「……ふふ、。良い火加減でしたね、土鍋さん」
八恵が独り言をつぶやくと、まだ余熱を持った土鍋が、パチリと小さく、祝福するように鳴った気がしました。




