独り占めの時間は、もうお終い
プシュケの結婚話が持ち上がってから、数日後。第四庭園で過ごすよう命じられたデルマは、なんの感情もなく野草や木の実を食べていた。幸い今は新涼の時期、食べるものにも困らず寒さで凍えることもない。
(このむし、たべられるかな)
寝転んだ体に這う多足類の虫をぼうっと眺めながら、彼女はそんなことを考える。すると視界いっぱいにある男が映り込んだ。
「来い、デルマ」
気付くと同時に首に繋がれた鎖を強く引かれ、白い頬が土で汚れた。
「なにを驚いた顔をしている。それともお前は本当に、豚らしい生活が気に入ったのか」
相変わらず、プシュケに見せる表情とは正反対。アレクサンダーに対してどうという感情を持たないデルマだが、最近特に【プシュケと自分との違い】について考える機会が増えたことは、間違いない。
とりあえず首を振ってみせると、彼は美しい線を描く眉を歪に歪めて、デルマの丸まった背を蹴った。
前々から鬱陶しかった妹、結婚話が持ち上がってからというものさらに甘えてくるようになり、アレクサンダーの不快感はいよいよ限界に達していた。
加えて母と結託して、デルマを身代わりに差し出そうとしている。それを父が許すはずがないと分かっていても、直接鎖を握り締めていないと落ち着かない。
今のアレクサンダーは、幼い頃から常に側に置いているお気に入りの人形を、古くて汚いからという理由で捨てられそうになっている子どものようだった。
「俺の部屋に行くぞ、早く立て」
「いつもの?」
「無駄口は不要だ」
デルマを自室に入れると母て妹がぐちぐちと小煩い為、普段は地下牢に連れていくことが多い。けれど今はプシュケの件で騒がしく、さして気に留められはしないだろうとアレクサンダーは思う。
それになにより、片時も鎖を離したくないという思いが勝り、その他について思案している余裕もなかった。
「……」
デルマは、様子のおかしな彼をただじいっと見つめた。錆色の長い髪を地面に垂らし、小さな顔で上を見上げながら細い首を傾げる。ぺたりと座り込んだまま、股の間に華奢な腕を突いて瞬きすらしない。
そんな彼女を目の当たりにしたアレクサンダーの全身は、たちまち苛立ちに支配された。主導権が彼女に映るなど、一瞬たりともあり得ない。そのはずであるのに、ただ見上げられただけで脳を直接揺さぶられたような気分になる。
惨めな妾子であり、首を太い鎖で繋がれた哀れな女。だれからも相手にされず、このまま永遠に飼われ続けるだけの役立たずな豚。
それだけが真実であり、アレクサンダーにとって彼女はただの暇つぶし、操り人形、そして好奇心を満たす為の実験道具でしかない。
「……いつか、お前のその不愉快な瞳を抉り出してやるからな」
心底忌々しそうに溢しながらも、彼はただ一点から視線を逸らすことができなかった。
「アレクサンダー様、こちらにいらっしゃったのですか!」
二人の間に流れる異様な雰囲気を破ったのは、家令の慌て声。マリーウェルシュ家では古参である彼が、珍しく取り乱した様子で彼の下へと駆け寄った。
「どうした、火急の件か?」
でなければ、第四庭園に近寄るはずがない。この場所がなんの為に存在しているのか、知らぬ馬鹿はいないはずだ。
「はい、左様でございます」
初老である家令は息も絶え絶えに、その口から事実だけを口にした。
「プシュケ様が、息を引き取られました」
その瞬間大きく目を見開いたのは、意外にもアレクサンダーではなくデルマの方だった。




