天使による、悪魔の謀
「これは陛下直々の通達だ。我が家が断るなど、最初からできない」
「ああ、なんてこと!愛しい我が子の最期を、看取ることすら許されないなんて……っ」
「あの国の技術は優れている。有効な治療法や妙薬が見つかる可能性も、ここよりずっと高い。プシュケの為と思うのならば、お前が今すべきはあの子に最も相応しい花嫁衣装を選ぶことだ」
ほんの数口で食事を終えたアドルフは、全身で嘆き悲しむ妻には目もくれず立ち上がると、アレクサンダーを一瞥した。
「あれを殺してはいないだろうな?」
「ええ、もちろんですお父さん」
「そうか、ならば構わない」
親子の会話は、たったそれだけ。アレクサンダーは「どうせ監視をつけているくせに」と心の内で悪態を吐きながら、去っていく父親の背を冷めた瞳で見つめた。
この父親は誰のことも愛してはいないのだと改めて思う。中でも、庶子であるデルマを特別に憎んでいるきらいがある。愛する女の腹を食い破り、望まれてもいないのに勝手にこの世に産まれた。あっさりと殺すよりも、息子の嗜虐性を鎮める道具として使わせているあたりが、恐ろしく非情だ。
「……お母様。今の話は本当なの?」
まるで見計らったかのようなタイミングで、プシュケが食堂に顔を出す。澄んだブルネットの瞳からは湧き水のごとく涙が溢れ、薔薇色に染まった頬はふるふると小刻みに震えている。
「まぁ、プシュケ!起きていて平気なの?」
「誤魔化さないで!さっきお父様が言っていたことは本当なのかって、聞いているの!」
「……愛しい私の娘。どうか落ち着いて聞いてちょうだい」
ユリシアは彼女に駆け寄ると、その華奢な体を抱き締める。金でできた彫像と同じかそれ以上に冷たい体に、自身の体温を分け与えようとする。
「私絶対に嫌よ!あんな【邪神】の花嫁になるなんて!」
「心配しないで。この母がなんとしてでも、あの男との結婚を阻止してみせるから」
「本当に?信じてもいいの?」
「当たり前でしょう、可愛いプシュケ」
眼前で繰り広げられる茶番劇に、アレクサンダーはうんざりするが噯にも出さない。昔からこの二人は、被害者の振りをした加害者なのだと。
「けれどもしかしたら、あちらの国にもっといいお医者様がいるかもしれない。表向きは話を進めておいて、いざとなったら逃げればいいのよ」
「そんなこと、私にできるかしら」
「大丈夫、全部上手くいくわ」
はらはらと涙を流すプシュケは、母から兄に標的を写した。輝くブルネットの瞳で、上目遣いに甘えた声で鳴いた。
「私、お兄様と離れたくない」
「プシュケ。お前もいつかは、誰かの妻となる時がくる」
「だったら、アレク兄様みたいな人がいい!邪神と呼ばれる夫なんて、なにをされるか考えただけでも恐ろしいもの!」
操り人形の手足をもいで遊ぶアレクサンダーは、彼女の言葉にただ黙って微笑む。この空間にいればいるほど、思い出すのはデルマのことばかり。
この苛立ちをぶつけねば、身代わりとなるのはプシュケだ。彼女が愛する兄の実験台にされていないのは、デルマという存在のおかげ。
それを知らないプシュケは、いつもアレクサンダーの傍でぼうっと呆けているデルマが憎らしくてたまらなかった。
「それに、国を出てしまったらお兄様にも会えなくなっちゃう。せっかく動いている心臓だって、寂しさのあまりすぐ止まっちゃうわ」
「はは、それは困るな」
「でしょう?だから私は、その恐ろしい男の妻にはならないの!」
すっかり自己完結してしまったプシュケは、話しは終わりだと言わんばかりにアレクサンダーに抱きつく。選択権などないのだとわざわざ教えてやる必要もないだろうと、彼は優しく目を細め妹の頭を撫でた。
「そうだ、代わりにあの豚を生贄に捧げればいいのよ」
彼女の声色は、いやに弾んでいた。
「そうすればお兄様も解放されるし、あの気色悪い顔を金輪際見なくてすむもの」
「……あれでは、先方が納得しないだろう」
「顔をぐちゃぐちゃにしちゃえば、分からないんじゃないかしら?婚約を結んだ後に、怪我をしたことにすればいいんだわ!」
プシュケは嬉々として自らの妙案を口にしながら、アレクサンダーに身を預けている。頭を撫でる手にだんだんと力が込められていることに、可憐な天使はちっとも気付かない。
「そうと決まれば早速、お母様に相談してみましょう!」
「……プシュケ」
「なあに?アレク兄様」
無邪気に首を傾げる妹に向かって、彼は美しく微笑む。
「あまり考え過ぎると、体に触るぞ。部屋に戻って休んだ方がいい」
「私が眠るまで、手を握っててくれる?」
「ああ、もちろん」
アレクサンダーの手は無意識に、デルマの鎖を引いていた。