偽善とは、この世でいちばんの悪である
けれど、そんな彼女の夢も長くは続かず。目敏いアレクサンダーはデルマの雰囲気が変わったとすぐに気付き、ダイヤモンドは奪われた。
「お前はとんだ泥棒だったんだな」
彼女をいたぶる理由ができたと、アレクサンダーは嬉々として首輪を引く。デルマはただ沈黙のまま、いつも通り冷えた床に身を沈めた。
気の済むまで嬲られる流れだと思っていたのだが、しばらく経っても拳も飛んでこなければ足蹴にもされない。そしてその代わりに、やけに熱い指先が彼女の頬に触れた。
「首輪よりも、ネックレスが欲しかったのか?」
その問いに、デルマは答えない。
「俺がお前に、それを贈ってやろう」
ぞわりと背筋が粟立ち、高熱にうなされているかのように不快でたまらなくなる。痛めつけられるよりも、優しくされる方がずっと嫌だった。
そうされた経験のないデルマにとって、たとえそれが偽りであっても『善』は『敵』なのだ。心臓が萎縮し、視線が泳ぎ、頭が真っ白になる。穏やかな眼差しや、優しい言葉、爪を立てない触れ方、そのすべてが恐怖を与えるものでしかない。
アレクサンダーは、それをとてもよく理解していた。
「なぁ、デルマ?たまには、可愛らしい声で強請ってみせろ」
「……や」
「なんだかんだと言っても、俺はお前がかわいいんだ。そうでなけれは、わざわざ鎖で繋いでおこうとは思わない」
年に数回、こうして慈愛に満ちた眼差しを向けられる。デルマは腹の底から湧き上がる嫌悪感に耐えられなくなり、アルビノの瞳をくしゃりと細め懇願した。
「やめて、ください」
「……くはっ!やはりお前は化け物だな!」
美顔を歪め、薄く色付いた彼女の頬に鋭い爪を立てる。鮮血の滲む様を、アレクサンダーは満足げに眺めた。散々プシュケのご機嫌取りをさせられむしゃくしゃしていたが、これでいくらか溜飲を下げられた。
嗜虐性と好奇心の強い彼は、もうずっと昔からこうしてデルマを心身ともに弄ぶ。
どんな拷問にもたいして感情を露わにしないデルマが、最も強く拒絶する瞬間。それが、慈悲を与えるという行為なのだ。
「普通の人間は、優しくされれば嬉しいものだ。プシュケを見ていたら、それがよく分かるだろう」
「……」
「あれはもうすぐ死ぬ運命にあるが、お前は違う。俺に腹を捌かれても、しばらく飯や水を与えられずとも、そうして立派に生きている」
眼前の男の言いたいことが、デルマには理解できない。ただ『腹を捌く』という単語を耳にした瞬間、無意識に自身の腹部に手をやった。着せられたぼろ布の下には、ぐちゃぐちゃに縫われた傷痕が我が物顔で広がっている。
かつてアレクサンダーが、興味本位でした『手術の真似事』の代償を、彼女が払った証だった。
(プシュケとわたしは、ちがう)
最近なぜか、そんな考えが頭を巣食う。きっとプシュケの死期が迫っていることを、本能的に感じ取っているのだろう。
可愛いプシュケ、天使のように愛らしく、誰からも愛され大切にされる。今の自分のように違和感など感じる暇もなく、優しく扱われるのが当たり前の柔らかな世界。
アルビノの瞳に反射するきらきらと輝くダイヤモンドの煌めきが、眼球の内側にこびりついて離れなかった。
(わたしが、プシュケみたいだったらいいのかな)
「……おい」
デルマは、自分が今血を流していることを忘れていた。まるで恋でもしているかのような顔をする彼女に、アレクサンダーは容赦なく蹴りを入れる。
小汚いくせに、一丁前に蠱惑的な表情をする。彼は見下しているデルマに心を乱される瞬間が、世界で一番嫌いだった。
「ぐ……っ、ぅあ……」
「莫迦は大人しく、俺に従っていればいい」
「う、ん、わかった」
「間違っても、なにかを変えようなんて思わないことだ」
アレクサンダーは汚れた靴の爪先を一瞥すると、彼女の服の裾で拭う。
「泥棒には罰を与える。今夜から最低七日は、第四庭園の隅で過ごせ」
マリーウェルシュ家の第四庭園は、彼がデルマを痛ぶる為だけに作らせた場所。広大な辺境伯の敷地内の端に、ひっそりと佇むただの野原。周囲は塀で囲まれ、外からはなにも見えず、中からは逃げ出すこともできない。
アレクサンダーはそこで、デルマにあらゆる罰を与えてきた。もちろん、死なない程度に。
彼女がこくりと頷いたのを合図に、もう用はないとばかりに瀟洒な後姿が遠ざかっていく。デルマはふうと息を吐き、唇に付いた血を赤い舌で舐めとった。
(なにかをかえるって、どういうこと?)
大人しく庭園への道のりを歩みながら、ふと思い出す。釘を刺したはずのアレクサンダーの言葉は、却って彼女に考えるきっかけを与えることとなったのだった。