この心は、まるで曖昧模糊
アレクサンダーとプシュケの母は、嫉妬に狂いデルマの母を死に追いやった。天使と呼ばれたプシュケも、いつもデルマに嫉妬の炎を燃やしていた。ロマンス小説や新聞のゴシップ記事にだって、程度の差はあれど似たような描写が溢れかえっているのだ。
デルマにとっては理解不能でも、好いた相手を独り占めしたいという感情は普通であり、裏を返せば持っていなければおかしいもの。
「リバーシュ様がもしも愛人を連れてきたら、私はその方を殺さなければならないのよね」
「……突然、何を言い出す」
どんなに窮地に立たされた戦況よりも、デルマの感情は読み難い。急に物騒な物言いを始めた彼女に、リバーシュは思わず顔を歪めた。
「母も姉もそうでしたから、私もしなくちゃいけない」
「馬鹿げた思考だ」
呆れたような溜息とともに、低い声がデルマの脳に届く。
「他人を真似てなんになる」
「え……?」
「お前がしたければしろ、したくなければするな」
リバーシュにしてみれば、大した意味のない言葉。けれど彼女は、淡く輝く瞳をこぼれ落ちそうなほどに見開いた。
「以前にもお前は言ったな?姉の真似をしていると」
「ええ、言いました」
「それは本意なのか?」
「……本意か、どうかなんて」
考えたことすらなかった。家畜同然の暮らしをしていたデルマには、この年頃の令嬢の振る舞いがわからない。人間が生活の中で自然に身についていく過程が、彼女には存在していない。
これまで学んだものを見せてみろと言われたら、今すぐに這いつくばって四足歩行でもしてしまいそうだ。
「デルマのままでは、ここに来ることはありませんでした。完璧に姉を真似たからこそ、私はあそこから外に出られたのです」
「……お前は、腐ってもマリーウェルシュ家の娘だ。たとえ姉が優秀であろうと、そこまでする必要があるのか」
「リバーシュ様は、親の愛は平等だとお考えですか?」
無垢な瞳で問われ、今度はリバーシュが目を見開いた。無意識に自身の顔の傷に触れようと指が動いたが、すんでところでそれが止まる。
愛を享受するには、対価が要る。家族という狭い世界は簡単に歪み、たった一度の足踏みでがらがらと崩れて二度と元には戻らない。彼は、それをとてもよく理解しているはずであるのに。
「……俺が、とやかくいう話ではなかった」
こんな風に変な罪悪感に肩を掴まれるのは、一体いつぶりだろうかとリバーシュは思う。剣を交えての対話以外久方ぶりで、ましてや相手はデルマ・マリーウェルシュという不思議な令嬢。殺気や怒号は通用せず、自然と向き合う形になってしまう。
「いえ、私の方こそすみませんでした。なんだか、変な雰囲気にしてしまいましたね」
それ以上、踏み入らない。邪神と畏れられる戦闘狂リバーシュよりも、デルマの方がよほど淡白な表情をしていた。
マリーウェルシュでの日々を話す気もなければ、彼の生い立ちを細かく知るつもりもない。ただプシュケの真似をして、父の思惑通りリバーシュと結婚することができればそれだけでいい。
(憧れているのは事実だけれど、他に思うところはないわ)
彼女はそう結論づけたが、小さな違和感は胸に残ったままだった。
「ええっと、なんの話をしていましたっけ?ああ、呼び方がどうのという」
「お前は、この俺に名を呼ばれたいのか?」
「え……っ?」
てっきり話は以上だと思っていたデルマは、突然の問いかけに目を見開く。鷹の目のように鋭い瞳の中には、困惑する一人の令嬢の姿が映し出されていた。
「お前自身の意思はどこにある」
「私自身の、意思?」
「他は一切、関係ない」
それが普通、という概念は退けられた。リバーシュの前では方便も曖昧も通用せず、すべてを剥ぎ取ったありのままだけを見透かされる。
(確かに、とっても居心地が悪い)
アレクサンダーのまとわりつくような薄気味の悪さとは、違う。彼から目が離せず、気を抜けば自ら望んで足元に跪いてしまいそうだった。
「デルマ……と」
自分の名前を呟いているはずなのに、赤の他人を呼んでいる気分になる。半ば無意識にそう口にした後、彼女ははっとして口元を抑えた。
「分かった、今後はそうする」
「さ、先ほどは指図するなとおっしゃったくせに」
「俺自身が決めたことだ」
ふっと視線を逸らしたリバーシュは、気付かれぬよう再びちらりとデルマに目をやる。してやられたようにはくはくと口を開けては閉じ、としている様子に思わず頬を緩めた。
名前を呼ぶという、些細なやり取り。それが互いにとっては、頭を揺さぶられるほどの目眩すら起こしそうになる。デルマもリバーシュも、おおよその「普通」からはかけ離れた人生を送ってきた。周りから見れば幼子のような会話でも、ふたりにとっては意味が違うのだ。
(リバーシュ様は、こんなことを言う人ではないはずなのに……!)
なかば混乱状態のデルマは、自分が言い出したにも関わらず名前呼びが決定してしまった事態に頭を抱えた。ただの軽口だったはずで、どうせいつもと同じように一蹴されて終わり、という流れしか想定していなかった。
なによりいちばん驚いているのは、たったこれだけのことに動揺している自分自身。まともに会話が成立したどころか、あのリバーシュが素直に要求を聞き入れる日がくるとは。
「あのう、無理に名前を呼んでいただく必要は」
「くどい。この話は終わりだ」
「……はあい」
睨みを効かせられたデルマは、なぜだかほっと胸を撫でおろす。の話を聞かない傍若無人な【邪神】、これこそがリバーシュ・ウェルガムンドだと。
「あ、ス、スコーンもなくなりましたし、私はそろそろ部屋へ戻ります!」
デルマは残っていた数枚を手で掴みポケットに押し込むと、へらりと微笑んで適当なカーテシーをしてみせる。白々しいその態度に僅かに片眉を上げたが、リバーシュはそれ以上問い詰めたりはしなかった。
「では、失礼いたしま」
「デルマ」
代わりに、地を這うような声で名を呼ぶ。
「明日も、同じ時間に来い」
「は、あ、あの」
「遅れたら斬る」
婚約者に向けて物騒な台詞を放つと、彼はそのまま完全に背を向けた。デルマもまた、静かに部屋を出ていく。
そして扉が閉まると同時に、彼女はそのままへなへなと力なくへたり込んだ。
「なんなのよ、もう……」
よりによって、あんな会話の後にわざわざ名前を呼ぶなんて。こちらの反応を見てからかっているとしか思えない。
「落ち着いてデルマ、名前なんてただの呼称よ。深い意味なんてないんだから、堂々としていればいいの!」
誰に向かって言い聞かせているのか、そんな言葉とともに彼女はポケットから取り出したスコーンをやや乱暴に放り込むのだった。




