ひとりの男と、一匹の化け物
(あ、初めて見た)
その瞬間、デルマは心臓がゆらゆらと波に揺らされたような感覚になり、思わず胸元を手で抑える。
「なに、これ」
「どうした、奇妙な顔をして」
「いえ、なんでも」
初めての感覚に首を傾げるが、それがなんなのかを深く追及するほどではないとすぐに切り替えた。それよりも今は、心にかかった霧の正体を言語化できたのだから良しとしよう、と。
「同じ化け物同士、気持ちが通じ合えるかと思ったのになぁ」
「一体なんの話をしている」
「リバーシュ様も、普通の男性だったのですね」
今度ははぁ、と憂いの溜息を吐く彼女を見ながら、リバーシュは不愉快そうに眉根を寄せた。
「落胆する理由がおかし過ぎる」
「仕方ありません、これが本音ですから」
「お前のような女は初めてだ」
これまで何人もの令嬢が、彼に取り入ろうと近付いてきた。そして全員が、怖い怖いと震えながら去っていく。黒布に覆われた姿でさえそうなのだから、醜い顔をの傷を見れば泡を拭いて倒れるのだろう。
リバーシュ・キース・ウェルガムンドは無慈悲な【邪神】であらねばならないが、生涯誰にも受け入れられることはない。
まさか政略に塗れた十近くも年下の令嬢が、すべてを覆すとは夢にも思わなかった。
「もう、この辺りにしてくださいませ。私が悪かったのです」
「いや、謝る必要などない」
「なぜですか?だってリバーシュ様は【邪神】と呼ばれることがお嫌なのですよね?私は理想を押し付けてしまいましたし、今後は極力関わらない方がいいと思います」
自己完結して立ちあがろうとするデルマの手を、彼は衝動的に正面から掴む。互いの視線が絡み合うと、瞳に宿る光がまるで呼応するように輝いた。
「あの、リバーシュ様?」
困惑の声色で尋ねてみても、手を離してはもらえない。
「お前はもう、俺のものだ」
「え……っ?」
「そんな勝手は、許さない」
血の色を宿した唇が、ゆっくりと動く。この空間だけが切り取られたような不思議な感覚に、彼女は瞬きすら忘れてリバーシュに見入った。
――なんだか、泣いているみたい。
そんな風に思うのは、きっとおかしいことであるのに。
「……とにかく。今後も夜は部屋へ来い」
掴んだ手をぱっと離し、リバーシュはばつが悪そうに視線逸らしながらそう口にする。
「それでよろしいのですか?」
「構わないと言っているだろう」
「分かりました、ではお言葉に甘えて」
そもそもなぜこの部屋に連れてこられたのか、口封じの為か、それとも詰られるか、近付くなと釘を刺されるか。そんなところだろうとふんでいたデルマの勘は外れ、よく分からない方向に話が流れた。
(しかも、リバーシュ様が笑っているのなんて初めて見た)
彼女は元より感情を持たないが、馬鹿だと言われてもちっとも不快に感じないどころか、そんな軽口を少し嬉しいとすら思うのは気のせいだろうか。
「また明夜、お部屋に伺います」
「ああ」
「では、お休みなさいませ」
適当に選んだ夜着を身に纏い、恭しく挨拶をしてみせる。リバーシュの鋭い金瞳はすでにデルマに向けられていなかったが、それを気にすることなく部屋を出た。
「考えてみれば、当然よね。恐怖を感じない化け物なんて、この世界に私しかいないんだわ」
静まり返った廊下に、小さな呟きが落ちる。思い返すと、やはり胸の辺りがもやもやと燻り始めたので彼女はそれ以上考えないことにした。
無意識に腹の辺りを撫でながら、一度だけ振り返った後はそのまままっすぐ自室へと戻ったのだった。




