【邪神】は【天使】を恐れる
「……よく、分かりました」
デルマは小さく頷くと、ふらふらと覚束ない足取りで立ち上がると、見失った親を探す幼子のように、扉に向かって歩き始める。ドアノブに手をかけたところで、視線は合わさず半身だけ振り返った。
「哀れな私などの為に時間を使わせてしまって、申し訳ありませんでした」
「お前は俺に対し、腹を立てているんだろう」
「腹を立てる?私が?まさか」
貴様、という呼び方がお前に変わったなぁと、そんなどうでもいい変化をデルマは頭の端でぼんやりと考えていた。
「あなたの言葉を借りるのなら、私は化け物です」
長い睫毛を伏せ、彼女は薄く笑う。
「腹を立てたことなど、一度もありませんから」
そう口にすると、彼女はすうっと部屋から消えていく。本来はただ部屋を退出しただけだが、リバーシュの目にはそう見えた。
「臆病だから生き残れる、だって」
誰もいない廊下でひとり、崇拝していた【邪神】の情けない言葉を反芻したデルマは、そのまま振り返ることなく自室へと戻っていったのだった。
――自分以外誰もいなくなった部屋で、リバーシュは再び固いソファにどさりと腰を落とす。深く沈み込まないそれは、疲れを取ることはできずとも非常時にはすぐに立ち上がることができた。
室内のあらゆる場所には剣が置かれ、皮膚にかけるだけで染み込む即効性の毒や目眩しの煙玉、他にもマスケット銃や首を絞める頑丈な縄まで、あらゆる武器が揃っている。
そもそも、これはこの部屋に限ったことだけではなかった。無駄に高い塀や数だけはある大砲もなにもかもが、他の貴族とは比べ物にならない。他人から見れば好戦的で血気盛んな男にしか見えないが、真実はたった今彼の口から語られたばかり。
ここまでしないと怖いから、ただそれだけだった。
「……胸糞が悪い」
リバーシュは落ち着かない様子で再び立ち上がると、二重底にしてある引き出しの奥から薬袋を取り出した。適当な錠数を鷲掴み、口に放り込んで水で流し込む。
最初は戦場に赴く時だけにしか服用していなかった薬も、いつの間にか毎晩飲まなければ気が済まなくなった。
ベッドのシーツに乱れがないのは、そこで眠ることがないから。常に気を張っていなければ、悪夢に精神を持っていかれる。
デルマに真実を話したのは、腹が立ったせいもある。まるで完全無欠の神を崇めるかのごとく、純粋で濁った瞳を向けられるのが耐えられなかった。
そして、単純にデルマが恐ろしかった。格下の使用人に無礼を働かれても、あんな怪我をしても平気で笑っていられる。この醜い顔を、綺麗だと言ってうっとりと眺めていられる。そんな奇行を目の当たりにしてもなお、彼女は変わらず純真で愛らしい。
見たこともない【天使】という存在を、思わず信じてしまいそうになるくらいには。
「……本当に、不愉快だ」
リバーシュはだんだんと虚になっていく視界の端で、デルマが先ほど見せた表情を思い浮かべていた。自分を「化け物」だと言った、なんの感情もこもらないあの瞳。
彼女は、死んだ姉とは比べものにならないほど壮絶な経験をしているのだと、リバーシュは初めてデルマを慮った。あれはただ、莫迦の真似事をしているだけ。真実は、なにひとつない。
――あなたの言葉を借りるのなら、私は化け物です。
そう放った言葉にどんな意味が込められているのか、いくら考えたところで無意味だと。頭では理解しているはずなのに、静かに閉じた瞼の裏に浮かぶ悲しげな横顔はしばらく消えてはくれなかった。




