自由な天使と、鎖に繋がれた豚
「ちょっと、アレク兄様ぁ!またこんなところでその豚女に構っているの!」
その時がちゃりと無遠慮に扉が開き、可憐な少女が顔を覗かせる。彼女はアレクサンダーの実の妹、プシュケ•マリーウェルシュである。
周囲からは《天使プシュケ》と呼ばれ、万人に愛される清楚可憐で可愛らしいご令嬢。兄と同様にブルネットのふわふわとした髪と大きな瞳を持ち、白いもちもちとした肌と女性らしい体つきはとても魅力的。
甘え上手で、男の庇護欲をそそるのが大変上手なプシュケには、日頃からたくさんのラブレターが届く。高嶺の花として、直接思いを伝えるのは烏滸がましいと思う男が大勢、加えて兄は彼のアレクサンダーである。
「プシュケの部屋に来てくれるのを、ずっと待ってたのに!」
「そうか、それはすまないことをした」
「へへ、お兄様に謝られたらなんでも許しちゃうわ」
アレクサンダーが好きで好きで堪らないプシュケは、それはそれは可愛らしくふんわりと微笑んだ。彼女もまた、デルマとは異なる種類の莫迦だった。策略的で、自ら無知で無能な振りをする。そうすれば、周囲が可愛がってくれると分かっているから。
「……相変わらず、化け物みたいに気持ち悪いわね」
足元に転がるデルマを一瞥すると、プシュケは眉を顰めながら手で口元を隠す。兄の所有物であることを示す首輪が目に入るたび、彼女はデルマを殺したい衝動に駆られていた。
「アレク兄様が、豚の血で穢れちゃう」
デルマは殴られた鼻を痛がる素振りもなく、ただぼうっとしているだけ。ぼたぼたと垂れる血を眺めながら、それが赤い理由はなんだろうと考えていた。
「どうしてお兄様は、こんな女を側に置くのかしら」
「腐っても妹だからな。立場的には、お前と変わらない」
「……はっ、ありえない!」
天使と謳われる自分と、卑しい血筋の庶子が対等であるはずがない。アレクサンダーに家族愛異常の感情を抱いているプシュケにとって、デルマの存在は憎悪の対象でしかなかった。
ただの操り人形だとしても、こうして構ってもらえるのだから。
「……けほけほっ。胸が痛いわ、どうにかなりそう」
「本当か、こっちへ来い。プシュケ」
「えへへ」
プシュケは可愛らしい笑みを浮かべながら、吸い込まれるように兄の胸元へ体を寄せる。そんな妹の背中を撫でる彼の手つきは、感情とは裏腹に優しかった。
(プシュケ、しんじゃうから)
そう、プシュケの命は長くない。生まれついての心疾患を持っており、最近では以前よりも心雑音が酷くなっていると医者から言われた。
時計の捻子が馬鹿になれば捨てるしかなくなるように、彼女の体もただ壊れる時を待つだけの日々だった。
「誕生日おめでとう」
「まぁ、覚えていてくれたの?ありがとう、アレク兄様!」
「当たり前じゃないか。今年もこうして、お前を祝えることを嬉しく思うよ」
奇しくも、デルマとプシュケの誕生日は同じ。生まれ年もその時刻も、すべてが重なっている。にも関わらず、父は愛妾であったデルマの母の出産に立ち会った。
プシュケの母は彼女がこの世から去ってもなお、いまだ激しい憎悪を胸に宿している。そしてその矛先は当然、デルマであった。
「誕生日プレゼントは、まだ用意していないんだ。街に出て一緒に選ぼうと思って」
「本当?絶対に行きたいわ!」
「ああ、今度主治医に許可を取ろう」
アレクサンダーは、許可など下りないと分かっていてそう口にする。その内従者にでも適当なものを見繕わせればいいだろう、と。
「私、お兄様が世界でいちばん好き!」
「プシュケは本当にかわいいな」
男を誘惑する女の顔をしたプシュケを、デルマは床に転がったままなんの感情も抱かず見上げていた。
プシュケの命が長くないと知っているが、それがなぜなのかは理解していない。ただひとつ分かるのは、彼女が誰からも愛される存在だということだけ。
(わたしと、ちがうのはどこ?)
美醜に疎いデルマには、泥水に反射する自身の顔と嬉しそうに笑むプシュケの顔が、どう違うのか純粋に疑問だった。愛されたいという願望などあるはずもないが、自分が彼女のようになれば常に腹を空かさずとも済む。
「それに、くびにこれがない」
口内がからからに渇いていようと、デルマの声はいつも澄んでいてよく通る。兄弟愛という茶番劇を繰り広げていた二人の耳にも、当然それは届いた。