ただ、そばにいたいだけ
「私、本当に嬉しかったのです」
これ以上顔の傷について尋ねるのは止め、本来伝えたかったことを口にする。
「あなたが、マリーウェルシュの屋敷まで迎えにきてくださったことが、心の底から嬉しかった」
「この俺にあんな馬鹿げた手紙を寄越した女の顔を、見てみたくなっただけだ。死んだ後では遅いからな」
「理由はなんだって構いません。実際に足を運んでくださった事実だけが、私にとっては重要ですから」
アレクサンダーが自分という玩具を手放さない為、逃げる手足を引きちぎられるか、死を偽装し監禁されるか、最悪殺され本当に操り人形にされるか、いずれにせよデルマにとっては不都合であることに変わりはない。
(あの男の異常な性質を知っているのは、私だけ)
内心では嫌悪しているプシュケの真似事をすれば、興味をなくすかもしれないと思っていた。けれどあの男は言葉巧みに周囲を騙し自らの結婚を先延ばしにした。
タイミングよくユリシアが自害したのも、おそらくアレクサンダーが唆したのだろうとデルマは確信している。
死ぬのは怖くない。ただ、あそこが死に場所ではないというだけ。
(それにまだ、ダイヤモンドのネックレスだって手に入れていないんだもの)
あの時の高揚感が、今もまだ鮮明に焼きついている。当然のように嵌められていた首輪が、煩わしくてたまらなく感じた瞬間も、プシュケになりたいと夢見た瞬間も、目の前がぶわっと開けたような開放感も、なにもかもをはっきりと覚えている。
アレクサンダーに邪魔をされない為に、デルマはリバーシュを利用したのだった。
――プシュケ・マリーウェルシュが死んだかどうか、ご自分の目で確かめにいらして?私は、戦場にしか生き甲斐のない貴方様の、新しい【天使】になりたいの。
我ながら、手紙とも呼べない馬鹿げた内容。わざわざ変装をして街に出て、平民の使う小規模商会の飛脚を使った。証示印を見れば、リバーシュもそれに気付くだろうと踏んでいた。なんせ歴戦の猛者なのだから、そこまで鈍いはずがないと。
ただの悪戯か、ふざけた計略か、それともわざとか。デルマの現状をどう捉えるかは分からなかったが、きっとリバーシュは来るだろうと彼女は思っていた。
どれほど小さな火種であろうと、彼はそれを踏み消さねば気が済まない質であるはずだ、と。
腕っぷしと度胸だけでは、過酷な戦で生き残り続けることなど不可能。誰もが戦慄する【邪神】だって、中身は案外誰よりも臆病者かもしれないのだから。
(この人がプシュケの釣書を確認なんてするはずないわ)
絶世の美少女だろうが、そんなことを気にするわけがない。ただなんの素性もわからないプシュケの『妹』が、そんな手紙を寄越したという事態を奇妙に感じた。だからわざわざ、自らの足でマリーウェルシュまで確認しにきたのだ。
(取るに足らない子ども同然の私が、ただの莫迦かどうかを)
「私は、リバーシュ様の目にどう映りましたか?妻として合格とまではいかずとも、落第は免れたと思っても?」
「……貴様の目的はなんだ」
「私に、あなたとの時間をいただけませんか?」
赤く腫れた掌にふぅと息を吹きかけながら、デルマはそう口にする。
「一緒に過ごす時間を作ってください。屋敷にいらっしゃる間だけ、一日にほんの少しで構いませんから」
「それになんの意味がある」
「私にとっては、とても有意義なことですわ」
蔑視の視線も、彼女には届かない。
「俺がそんな条件を呑むとでも?」
「条件だなんて。婚約者からのお願いだと思って」
「断る」
まぁ、一蹴されることは分かりきっていた。金色の瞳に睨まれると、今にも魂を吸い取られてしまいそうで背筋がぞくりと粟立つ。
常に布や外套で全身を覆っているせいで、リバーシュ・キース・ウェルガムンドは世紀の醜男だという噂らしいが、それはとんだでたらめ話だったとデルマは思う。
左頬から口元にかけての、まるで大きく口が裂けているかのようにみえる傷跡だって、隠す必要などまったくない。
(どうせなら私も、お腹なんかじゃなくて顔に傷があればよかったなぁ)
この傷こそが、リバーシュを【邪神】たらしめる唯一無二の証であるというのに。