顔を隠す理由
その後デルマの奇行が瞬く間に屋敷中のお笑い種になると同時に、リバーシュからの扱いもそれは酷いものだったと、使用人たちはこぞって彼女を見下し始めた。
専属メイドがレイひとりしかいないことも、普通でありえない。そんな彼女も、ろくに女主人の面倒を見ようとはしなかった。
「部屋の中になんでも揃っているし、窮屈な首輪もつけなくてよくなったし、ここは天国だわ!」
杜撰な扱いを受けても、当然デルマには響かない。悲しくもなければ、腹も立たない。プシュケであれば今ごろとっくにこの屋敷を抜け出し母親に泣きついているだろうが、彼女の中にマリーウェルシュへ戻るという選択肢は露ほどもなかった。
ベッドの上にだらしなく四肢を投げ出し、捲れた夜着を正そうともしない。見るに耐えない傷だらけの体だが、レイを含めメイドはほとんどこの部屋に寄りつかないのだから、気を遣う必要はないだろうと。
「けれど、どうしたものかしら。せっかくリバーシュ様が帰還なさったというのに、会えたのはあの一度だけ。もっと観察して、表情や仕草を真似したいのに」
ひとりぶつくさと文句を垂れながら、彼女は細い指で自身の首元をさする。これはもう随分昔からの癖で、アレクサンダーからの支配が消えた今も無意識に繰り返してしまう。
あの時は息苦しさなど感じなかったのに、外されてからの方がなぜか窮屈に思えてならない。デルマを痛ぶるたびに、あの綺麗な顔が恍惚に歪む。今の彼女にとっては、敵味方関係なく【邪神】と畏怖されるリバーシュよりも、絶世の美青年と謳われ誰からも愛されるアレクサンダーの方が、よほど恐ろしい。
「よし、こうなったら行動あるのみ!」
痺れを切らしたデルマは、夜更けにも関わらずリバーシュへ会いにいこうと思い立つ。その間際姿見が手に入り、彼女はわざと髪をくしゃりと乱した。
リバーシュの部屋は、屋敷の一番上の階の最奥。一歩ずつ近付くごとに暗い雰囲気が濃く立ち込め、眼前が霞むような幻覚さえ起こす。
手にしている蝋台の火が、風もないのに怯えるように揺らめいた。
(普通、誰か護衛が立っているものじゃないの?)
アドルフの寝室に続く扉の前には、無駄に大勢の警備が張り巡らされていた。程度の差はあれど当主とはそういうものだと思っていたが、ここにくるまでひとりもすれ違っていない。
立ち入るなと止められた場合は適当な嘘でも並べようと考えていた彼女は、少し拍子抜けしたように肩の力を抜いた。
おそらくリバーシュは、護衛などつけずともこの屋敷――いや、この国の誰よりも強いのだと期待に胸が膨らむ。そんな男の妻になれるなど自分は本当に運がいいと、日に日に悪化する足を引きずるようにしながら分厚く荘厳な扉を遠慮なく叩いた。
「リバーシュ様、もうお休みですか?」
声を掛けて見ても、返事はない。
「リバーシュ様!もう、お休みでいらっしゃいますか!」
由緒正しき家柄の令嬢が取る行動とは思えないが、デルマは怯まない。調度品も装飾もない虚無の廊下に、彼女のやや甲高く澄んだ声が反響する。
「リバーシュ様‼︎もう‼︎お休みでいら」
「黙れ、莫迦が」
内開きの扉が嫌々開いたかと思えば、低音が過ぎて聞き取れないほどの声と共にリバーシュが姿を表す。と言っても、拳がやっと入るほどの隙間しかない為表情など見えない。
すぐにでも閉じられてしまいそうなそれに、デルマは躊躇いなくがつ!っとつま先を捩じ込ませる。怪我をしている方の足だが、踏ん張りを効かせるには仕方なかった。
マリーウェルシュの家では、痛覚という概念が欠落していた彼女。普通の人間ならば卒倒するだろう痛みに対しても、表情ひとつ変えなければ冷や汗すらかかない。
「せっかく同じお屋敷に住んでいるのに、お顔も満足に拝見できないなんてあんまりです!」
「つい数日前に忠告したばかりだが」
「申し訳ありません、私記憶力にあまり自信がなくて」
デルマは首を傾げながらすっとぼけてみせるが、リバーシュには通用しない。怒っている表情が見たいと蝋台を掲げると、彼は昼間と違い黒い布で顔を覆ってはいなかった。
(初めて見たけれど、これは……)
左の口端から頬に走る、古い傷痕。適切な手当がされなかったのか、不恰好に浮き上がったそれはまるで口の裂けた化け物かのようだ。
「止めろ、見るな……っ!」
蝋台を叩き落としたリバーシュは、怒鳴りながら掌で口元を覆う。それでも彼女は、無遠慮に見つめ続けた。
(私のお腹にある傷に、そっくり)
かつてアレクサンダーから受けた傷を思い返し、無意識に腹に手を当てる。女にあるまじき無様な痕を、これまで気にしたことはなかった。
「恐怖で声も出ないのか」
時が止まったように動かないデルマを見やり、リバーシュは馬鹿にしたように鼻で笑う。十人が十人同様の反応を見せるのが、つまらなくて仕方ない。
面倒を避ける為普段は隠しているのだが、流石に自室では息苦しさから解放されたかった。
「……素敵」
「は?」
「人によって、こうも見え方が違うなんて……」
アルビノの瞳に恍惚の色が乗り、ふわふわとした心許ない夜着が嬉しそうに揺れる。叩かれた手を胸の前で合わせながら、まるで美しい絵画でも見ているかのようにほうっと溜息を吐く。
「こんなに嬉しいことってないわ、ここを訪ねる選択をした自分を思いきり抱き締めてあげたいくらい」
「……貴様には、見えていないのか?」
「お顔の傷でしょう?もちろんちゃんと見えています」
形の良い眉を思いきり顰め、目の前の娘を見下ろした。自分より十も歳の離れた子どもであるのに、今まで対峙したどんな猛者よりも手強いと感じるのはなぜか。
泣きながら震えるか、怯えを隠して無理に笑うか、はたまた無様に叫び逃げ出すか。初めての反応を見せるデルマに、リバーシュは微かに困惑の表情を浮かべた。