赤い薔薇を、愛おしい人たちへ贈る
愛らしい笑みを浮かべておけば文句はないだろう、とばかりに微笑み、デルマはしおらしく兄にもたれた。
「では、三人でお父様の元へ向かいましょう?それからすぐに、出立のお許しをいただくわ!」
「な……っ」
「ですから今のうちに、愛しいお兄様にたくさん甘えておかないと」
アレクサンダーに頬を寄せながらも、視線だけはリバーシュから離さない。むずむずとした形容しがたい感情に支配され、これから起こるだろう未来を想像すると胸が高鳴る。
普通の令嬢であれば絶望に涙を流し、心からアレクサンダーを頼ったことだろう。生憎ながら、デルマは普通とはほぼ遠い人間だった。
(化け物扱いされてきたのも、無駄ではなかったかもしれない)
それに傷ついた記憶はないし、豚でも化け物でも操り人形でも、己という取るに足らない存在などよりずっと価値があるのではないかとすら感じる。
本当の化け物を前にして、にわかがどこまで通用するだろうかと、彼女は正に難攻不落のダンジョンに挑む勇者の心持ちだった。
その後瞬く間に話は進み、デルマは翌日どころかその日の夜にはマリーウェルシュの領地を発つ手筈となった。
「いくら【邪神】だからといって、非常識にもほどがある」
自らの盤上以外でことが起こるのを嫌うアドルフはやや憤慨したがリバーシュは意にも介さず、最後には話の通じる相手ではないと呆れられたが、それも当人にとってはどうでもよかった。
「お母様、プシュケ、さようなら。私のことを、空からずっと見守っていてね」
二人が他界してから毎日墓花を供えていたのは、この家でデルマただ一人。彼女は厚手のマントに身を包み、真紅の薔薇を両手いっぱいに抱えて別れの挨拶を告げる。
(お母様は綺麗で、プシュケは可愛い。内面の善悪は別として、見ていて飽きなかったな)
一体どれほどの仕打ちをされたか、時には使用人でさえ目を背けるほどの折檻すらされてきた彼女だったが、恨むほどの強い感情は湧かなかった。
――あの女に瓜二つだわ、忌々しい化け物め!
ユリシアから何度もぶつけられた台詞が、ふと頭を過ぎる。まさしく鬼の形相で、心底忌々しげな表情をしていた。彼女は、アドルフを深く愛していた。だからこそ、一瞬でもその心を奪ったデルマの母が憎くて仕方なかったのだ。
美しい容姿に加え、他人の真似事という武器を手に入れたデルマだが、あの表情はただの真似でどうにかできるものではないと思う。
(いつか私も、そんな日が来るのかな)
いや、きっとない。自分は化け物、永遠に本物を手に入れる日は来ないだろう。それでも構わない、だって今こんなにもわくわくと胸が熱く滾っているのだから、と。
「お前、正気か。いくらなんでも急過ぎる」
「お父様からお許しは出ましたわ。もともと大々的にはできなかったのだし、ただほんの少し日程が早まっただけです」
最後まで難色を示すアレクサンダーを少し哀れに思いながら、デルマは白く細い指を彼に伸ばした。
「またいつか、会える日を楽しみにしているわ。アレクお兄様」
わざとらしく音を立て頬にキスをするとともに、アレクサンダーの胸元に一輪の薔薇を挿す。初恋を知った少女のように、本当に嬉しそうにはにかみながら。
「さぁさぁ、お待たせいたしました!参りましょう、リバーシュ様!」
と思えば、すぐにくるりと背を向け別の男の元へと駆けていく。無邪気な声色がアレクサンダーの神経を逆撫で、今すぐにでもそのたなびくセピアの髪を掴んでやりたくなった。
「私もぜひ馬に乗せてください、リバーシュ様のご迷惑にならないようにいたしますから!」
「正気か?」
リバーシュがアレクサンダーと同じ台詞を口にしたことに、デルマはくすりと笑う。
「辺境伯家の令嬢が馬で移動など、ありえまい」
「それが一般的というなら、確かに私は正気ではありませんわね」
だけどそれでもいいと、デルマは引かなかった。リバーシュは変わらず口元を布で覆いながら、勝手にしろと背を向ける。もちろん乗馬など嗜んでいない彼女は、結局腹這いになりながら実に不恰好な乗り方で、まるで荷物のように馬に揺られることとなる。しかしリバーシュには、手を貸す気などさらさらなかった。
「みなさんさようならぁー!お元気でーー!」
そんな状態にも関わらず、デルマはとびきりの笑顔とともに手を振る。
「……このままで済むと思うなよ、デルマ」
アレクサンダーは薔薇を握り潰しながら、静かに呟く。彼の掌に滲んだ血は、月のない静かな夜半の中に溶けて消えていった。




