反吐が出る優しい温もり、氷のような掌
「デルマ、行かないでくれないか」
アレクサンダーは、澄んだ瞳を彼女に向け麗しい声色で呟いた。たちまち、デルマの背筋にぶわっと脂汗が滲む。
全身傷だらけで、ドレスなどではとても隠しきれない。アドルフの指示で白味の強い白粉を塗られていたが、汗をかくとそれが取れてしまうと彼女は心配になった。
(アレクサンダーから優しくされると、どうしても拒絶反応が出てしまう)
どんなに嬲られようが平気な顔で空を見つめていたデルマだが、この気味悪さだけは身体が覚えていた。プシュケを演じるようになり彼以外の好意には耐えられていたのだが、やはりアレクサンダーはある意味では特別な存在だった。
「これからは、心を入れ替える。お前を、大切にすると誓おう」
「あ、あの……、私は……」
「俺は、お前がいないと生きていけない」
「わ、わたし……っ」
誰もが羨むシュチュエーションに、デルマただひとりががたがたと震える。最初からこうしていればよかったと、アレクサンダーは腹の底でほくそ笑んだ。
やはり、この女の手綱を握るのは自分でなければならないと、満たされる支配欲に恍惚とした表情を浮かべる。
「おいで、デルマ」
先ほどとは違い、柔らかな手つきで彼女の腕を引く。すっかり力の抜けた脚はふらふらとアレクサンダーの元へと向かい――。
そして、胸に収まる直前でもう一方の手を強く引かれた。
「マリーウェルシュの娘はお前か」
「あ……」
「この私にあんな胸糞悪い手紙を寄越すとは、いい度胸だ」
デルマに優しくしようとしていたアレクサンダーは、いとも簡単に彼女を奪われた。以前のように鎖で繋いでおけば、そんな事態は免れただろうに。
聞き手に配慮のない、地を這うような濁声。オーラなど目に見えるはずはないのに、この男の周囲には黒い霧が立ち込めているように感じられる。
【無慈悲な邪神】という形容の言葉は決して誇張ではないのだと、誰もが首を縦に振るほどの存在感。
切れ長の瞳は黄金色に輝き、そこだけがぽっかりと浮き出たような不気味さを放っていた。
「……リバーシュ・キース・ウェルガムンド」
アレクサンダーは彼の名を呟きながら、すでになにもない掌をじいっと見つめることしかできなかった。
「あ、あなたが……」
デルマは、全身の毛穴がぶわっと開ききる感覚に驚く。それはまるで、アレクサンダーに対し感じた嫌悪感をすべて押し出すような、初めて感じる激情だった。
「ふん、所詮でまかせか」
わざわざ出向く必要などなかったと、リバーシュは不快そうに眉を寄せる。やはりこの女もただ怯えるだけの取るに足らない者だと、掴んだ手を離そうとして。
そうする前に逆に力強く腕ごと掴まれ、彼の【邪神】も微かに目を見開いた。
「初めまして、こんにちは!私、デルマ・マリーウェルシュと申します!」
気味が悪いと謗られ続けたアルビノの瞳は、分厚く覆われた雲の隙間から漏れる僅かな光を一身に集め、きらきらと嬉しそうに輝いていた。




