無垢な赤子か、無知な化け物か
「……ご結婚、おめでとうございます」
掠れた声で言いながら、デルマは僅かに口角を上げた。
「私は式に参列できないでしょうが、当日にはあちらからお祝いいたしますね」
「……デルマ、お前」
「どうか、お兄様と王女様のお二人に穏やかな幸せが訪れますように」
彼女が一番嫌いだったのは、アレクサンダーに優しくされること。どんなに嬲られようが食事を抜かれようが、あの気色悪さには敵わない。
(これからは、この人の真似事もしてやる)
小刻みに震える指先で、彼の頬を撫でてやる。初めてそんな真似をされたアレクサンダーは、思わず彼女の首からぱっと手を離した。
「がは……っ、ぐぅ……」
栓を抜かれた途端に込み上げてくる内容物を抑える為、即座に取り出したハンカチで口元を覆う。それでもなお、デルマの瞳は柔らかく細められていた。
「頑張りましょうね、お互いに」
「……調子に乗るなよ、化け物が」
不快感を隠そうともせず、アレクサンダーは彼女を睨め付ける。つい半年ほど前までは、搾取する側とされる側として明確に線が引かれていた。それなのに今は、なにかを搾り取られている気がしてならない。
「どうせお前など、すぐに捨てられる」
くるりと踵を返し、彼は部屋を出ていく。デルマはその瞬間、黒いロングドレスからだらしなく両脚を放り出した。
「はぁ……、苦しかった。昔はなんとも思わなかったのに、不思議だわ」
もしかしたら、自分は本当に化け物なのかもしれないと彼女は思う。昔を回顧してみても、まるで本でも読んでいるかのように他人事としか感じられない。深い悲しみもなければ怨讐もなく、ただ「そんなこともあったなぁ」と首を縦に振るだけ。
きっとあの日、偶然ポケットにプシュケのダイヤモンドが入っていなければ、今もただ日常を淡々と過ごしていただろう。
なんて綺麗なんだろう、これを身に付けたらどんな気持ちになるんだろう、もし私がプシュケみたいな女の子だったら――と。
そんな風に思った瞬間から、デルマの心の歯車はゆっくりと回り始めたのだ。
「まぁとりあえず、これでアレクサンダーへの挨拶は済んだってことで」
ハンカチの中にぺっと唾を吐き出すと、デルマはやけにすっきりとした気分で立ち上がった。そういえば今は葬式の真っ最中、早く戻らなければアドルフの機嫌が悪くなる。
「それにしても、なにも死ぬことはなかったのになぁ。生きてさえいれば、いつか良いことが起こるかもしれないのに」
自分のせいなどとは微塵も思わないデルマは、軽い口調でそう呟いた。墓の前ではプシュケになりきっていたから、母の死が心から悲しかった。が、そこから離れてみるとやはりすべてが他人事にしか感じられない。
「自分の中にある感情って、難しい」
あらゆるものをスポンジのように吸収している最中の彼女の頭の中は、ごちゃごちゃと乱雑に散らかっている。小さな子どもが、まだ覚えたての言葉と実際の物が線で繋がらないのと同じで、分かっているのに分からないという現象が起こっていた。
「まぁ、いいか!これから覚えていけば」
白い首には、くっきりと痕が残っている。が、そんなことは気にもせず、ひとり呑気な声を上げる。彼女の中からはすでに、アレクサンダーとのやり取りなど残ってもいない。
錆色から艶のあるセピアへと変わった髪をふわふわと揺らしながら、デルマはいまだ陰鬱な空気の漂う部屋を軽い足取りで後にしたのだった。




