これは、些細な復讐心から
「いずれにせよ、デルマはあの男の元へと嫁がせる」
「……先方はなんと?」
「了承するに決まっているだろう。所詮は向こうも、こちらを道具としてしか見ていない。国王陛下が指定したマリーウェルシュ家との縁を繋げられるのならば、相手はどれでも構わない」
どうやら母と妹の企みは成功したようだと、アレクサンダーは内心せせら笑う。あり得るはずのない未来が、プシュケが死んだせいで現実となってしまった。
「今後一切、デルマには危害を加えるな」
「あれは、僕なりに可愛がっていただけですが」
「ならばそろそろ、妹離れしなくてはな」
取りつく島もないアドルフに対し、アレクサンダーは穏やかに微笑みを返す。ただそれだけで、辺りがまるで一幅の絵画のように美しい空気に包まれた。
決して面には出さないが、彼の心の内はぐちゃぐちゃに荒らされ、自分ではもう整理が付かない。背後に隠した手は小刻みに震え、今この状況を甘んじて受け入れるしかないことに、耐え難い屈辱を感じていた。
アレクサンダーが、これまでつまらない毎日の均衡を保っていたのはデルマの存在があったから。そうでなければ、今頃この屋敷の地下室には哀れな亡骸の山となっていたはず。
なんの価値もない少女に、まさか買い手が現れるとは。これから先デルマは、自分の目の届かない場所で女となり、子を産み、そして死んでいく。
自分ではなくあの【邪神】がデルマの生殺与奪の権を握るであろう事実が、アレクサンダーには耐え難いものだった。
「こちらへ来い」
どいつもこいつも、くだらない感情に振り回される愚か者だと、アドルフは何度目になるか分からない溜息を吐く。デルマはすくっと立ち上がると、可愛らしい仕草で父の元へと駆け寄った。
「お母様、また後でお散歩に行きましょうね」
「ええ、そうしましょう!愛しいあなたのしたいことなら、望むことなら、なんだって叶えてあげるわ!」
小さな温もりが腕の中から簡単にすり抜けていき、ユリシアは途方もない喪失感に襲われる。いつの間にか嫌悪感からくる吐き気は治り、ただひたすらデルマに向かって手を伸ばす。
喪服から伸びる腕はごつごつと骨張っていて青白く、本当にそこに存在しているのか疑問になるほど、生気が感じられない。常に見目に気を遣いギラギラと着飾っていたユリシアが、こんな風になってしまったのは深い悲しみのせい。
(……少しでも、心が軽くなりますように)
デルマは強くそう願いながら、彼女に向かって天使の微笑みを浮かべてみせる。ユリシアを恨む気など、さらさらなかった。
「ユリシア」
デルマの隣に立つアドルフが、妻の名を呼ぶ。それは彼女にとって随分久しぶりに聞くような、穏やかで優しい声色だった。
涙に濡れた顔を上げると、夫婦の視線が絡み合う。どんなに酷い仕打ちを受けても結局、ユリシアはこの男を愛していた。そしてその血を受け継ぐ、アレクサンダーとプシュケも同等に。
「お前にもやっと、シェリーの良さが理解出来たのだな」
「……なんですって?」
「デルマを抱き締めながら、愛しいと泣いていたじゃないか」
アドルフはデルマの腰に手を回し、もう片方で白い頬を撫でる。嬉しそうにはにかむ様子は、どの角度から見てもプシュケ本人だった。
「ありがとうユリシア。同じ女を愛してくれて」
「ち、違う‼︎私は、私は……っ‼︎ああ、プシュケ‼︎愚かな母を、どうか許して……っ‼︎」
正気を取り戻した瞬間、ユリシアは絶望と共に床に膝を突いた。あろうことか、この世で最も憎い女の子どもに縋り付き、どうかそばにいてほしいと心から望んでしまった。
「アレクサンダー」
「はい」
「お前は、ああはなってくれるなよ」
「……はい、父さん」
頭を打ちつけながら泣き叫ぶユリシアを背に、アドルフは満足気に歩き出す。腰を抱かれているデルマも、後ろ髪を引かれる思いで父に従った。
残されたアレクサンダーは、美しい顔を寸分も歪めることなくただ静かに、握り締めた掌の中で血を滲ませるだけだった。




