莫迦の真似事
じりじりと照りつける太陽から、吹き荒ぶ冷たい風が煩わしい季節に変わり始めた頃。誰もがこれは夢だろうかと、何度も目を擦った。心臓病で亡くなったはずの人物が、何食わぬ顔をして父親の隣に佇んでいたからだ。
「寒い日が続くけど、今日はとってもいいお天気みたい。私、久しぶりにお散歩がしたいなぁ」
腰よりも長い髪は肩口で揃えられ、彼女が喋るたびにふわふわと揺れる。大きな瞳は忙しなく動き、桃の果実のような瑞々しい唇に思わず目を奪われる。
【天使プシュケ】と謳われた唯一無二の少女は、どうやらこの世に二人存在していたらしい。
(あの子のことは、ずっと近くで見てきたもの)
デルマはたった半年で、貴族として最低限のマナーを身に付けた。空っぽだった頭の中に詰め込むのは彼女にとって大変容易であり、虫を捕食している娘だとはとても思えなかった。
持病があったプシュケはこれでもかと甘やかされてきた為、さして知識も教養もない。そこを補完することは難しくないだろうとアドルフは考えていたが、まさかプシュケの人柄や雰囲気までも完璧に演じてみせるなど誰が想像できるだろう。
アレクサンダーの操り人形としてしか価値がないと見捨てていた娘は、とんだ才能を隠し持っていた。
「……この子は本当に、化け物かもしれない」
産まれた瞬間と同じ台詞を呟きながら、僅かに感じる戦慄を頭の隅に追いやる。そしてそっと、デルマの頭を撫でた。
「それは、一体なんなの……?」
いまだにひとりだけ黒衣を纏ったユリシアは、コークハットから覗く片目を見開き、見たくもないものを視界に入れる。髪色も面立ちもなにもかにもが異なるはずであるのに、どうしてか我が娘にしか見えない。一瞬でも気を抜けば、死んだプシュケが帰ってきてくれたと涙を流して縋り付いてしまいそうだった。
「あの男とデルマを結婚させる」
「そ、そんなことを聞いているのではありません!」
金切り声で詰め寄る妻に、アドルフは僅かに顔を顰めた。
「なぜ……、なぜあの子と瓜二つなのですか⁉︎」
「瓜二つ?私には、とてもそうは思えないが」
自身の発言にはっとして、口を押さえる。まさか、プシュケとデルマが似ているなどと感じる日が来ようとは。あらゆる嫌悪感で、吐き気すら催すユリシア。
「まぁ、お母様!顔色がとっても悪いわ。どこか痛むのかしら、無理をしないでね」
そんな彼女に、デルマはたたっと可愛らしく寄り添った。
「泣かないで、私はここにいるから」
「……ああっ!」
プシュケが、ここにいる。この世で最も憎むべき存在であるはずの少女に対し、ユリシアは思わず手を伸ばさずにはいられなかった。触れた頬はしっとりと温かく、氷のように冷たかった娘の亡骸の感触を、一瞬で溶かしていく。
今は化け物にさえ縋りたいという母の思いを、デルマは両手いっぱいに汲んでやった。
(初めて、この方に触れた)
プシュケを演じるという使命を与えられたデルマは、まるで海綿のようにあらゆるものを吸収していく。その過程で、少しずつ感情が芽生えていた。それは、他の人間と比べれば産毛のようなものであったが、彼女にとっては瞳の中がちかちかと眩しく輝くほどの、目覚ましい変化だった。
男と女、好きと嫌い、善と悪、損と得、光と影。この世界は表裏一体であり、一見すると対立しているようにしか見えないものが、その根本は同じであるという矛盾。
誰もが無意識に目を逸らす真実を、デルマはあっさりと受け入れた。
(大切な娘を失って、悲しくないはずがないわ)
今まで、ユリシアにどれだけ酷い仕打ちを受けたか分からない。それでも彼女に対して怨讐を抱く気になれないのは、単純に同情しているから。
「プシュケ、プシュケ、私の可愛い娘……っ‼︎」
「ふふっ、お母様ったら」
最大の屈辱を味わっていることに、ユリシア自身も気付いていた。死にたくなるほどの生き恥を晒しながらも、胸にぽっかりと空いた穴をデルマに塞いでもらう。大嫌いな女の娘に、救いを求めてしまった。
それがなにを意味するのか知りながら、ユリシアの感涙はとめどなく溢れ、美しいドレスを身に纏ったデルマの肩をしっとりと濡らした。
「どうやら、これは立派に通用するようだな」
アドルフは泣き崩れる妻を見下ろしながら、無感情に呟く。内心滑稽だと思いながらも、ここまでデルマにプシュケを投影するとは少し意外だったと、自身の顎に手をやった。
代替品として立っているだけで十分だと考えていたが、どうやらプシュケよりも役に立ちそうな雰囲気を匂わせている。ただ可愛らしいだけの天使よりも、皮を被った化け物の方が御し易いだろうと。




