他の誰かになれば、食べ物に困ることもない
♢♢♢
「来い、デルマ」
それは、何年かぶりにかけられた言葉。いや、下手をすれば生まれて初めてかもしれない。生物学上の父であるアドルフの背中を見つめながら、この人物が誰であったかを思い出すのにしばらく頭を働かせた。
プシュケの訃報により、デルマはそのまま自室へと押し込められた。傾いたベッドしかない、部屋というよりも納戸に近い場所。
(アレクサンダーとプシュケの、おとうさん)
「あの子が、死んだ」
「あの、こ?」
「プシュケに決まっているだろう。それとも、アレクサンダーの方が良かったか」
「どうして?」
投げつけられた嫌味も、彼女にはなんの効力もない。おおよそ初めてまともに話すであろう娘に、アドルフは苛立ちを隠すことなく舌打ちをしてみせた。
「プシュケは、隣国のある伯爵との婚約が纏まりかけていた。この話が別の貴族に渡ることは、我がマリーウェルシュ家にとって大きな痛手となる」
淡々と話す父を、デルマはただ黙って見上げた。立ちもせず、敬いもせず、庭園にいる虫を見る時と同じ瞳で。
「お前が意味を理解する必要はない」
アドルフは、この娘が嫌いだった。愛する女の腹を食い破り、望まれてもいないのに大きな産声を上げた。今まで最低限の生活を保証してやったのも、息子であるアレクサンダーの隠れた嗜虐性を発散させる場としてだけ。
抱き締めたいと感じたこともなければ、愛情など湧くはずもない。が、改めて面と向かうとつくづくかつて愛した女の面影を受け継いでいると、アドルフはそう思った。
「プシュケの代わりとして、ただ黙って立っていろ」
そう言われた瞬間、デルマの中でなにかがかちりと嵌まる音がした。
生まれて初めて掌に乗せた、きらきらと光り輝くダイヤモンド。綺麗で、いつまでも眺めていたくて、けれどすぐアレクサンダーに奪われてしまった。
――この、化け物が!
産まれてから今日までずっと、誰からもそう指を刺されてきた。だからこんな風に、首輪を嵌められるのだと。殴られて切り刻まれて、好き勝手に体を弄られても、それは自分が化け物だからだと、なんの躊躇いもなく受け入れてきた。
そうしなければデルマはとっくの昔に、この世界から消えていただろう。家畜と同じ、相手の都合で好き勝手に弄ばれるだけの存在。
(プシュケの、かわり……)
彼女が、化け物から人間に変わる時。俯いていた顔がぱっと上を向き、アルビノの瞳が色付く。デルマの頭の中に、過ごしたはずのないプシュケの記憶が濁流のごとく激しく流れ込み、すべてを丸呑みにしていく。
まるでデルマという少女など、最初から存在していなかったかのように。
「まぁ、お父様。今日もとっても素敵ね!」
そうして気付いた時には、彼女は正真正銘のプシュケ・マリーウェルシュとして天使の笑みを浮かべていたのだった。




