第六話 静かな夜に
女が一人、暗い道を歩いていた。
鬱蒼と茂る森の中に切り開かれた道を、供もつけずに独りで進んでいく。空には一切の光源がなく、手に持った青白いランプだけが唯一の明かりだった。
〈太陽のない世界〉に昼夜の区別はない。
何時であろうと空は暗く澱んでいて、人々は闇の脅威に晒され続けている。寒々しい空気は凍り付いたように張りつめていて、静かで、そして時間の流れは遅々として緩やかだ。
女の行動は、あまりにも不用心だった。
ともすれば、命を落としても当然な程。
闇に閉ざされた森には多くの魔が巣食っている。何人たりとも、その脅威からは逃れられない。例外はないのだ、決して。
しかし女の表情に恐怖の色は一切なかった。ランプの明かりに照らし出された端整な顔立ちは、人形じみた無表情で凝り固まっている。
美しい女だった。
白い肌。
白い髪。
紅い瞳。
完璧な容貌は造り物めいていて、あまりにも人間離れしている。その佇まいはさながら深窓の令嬢といった風情だ。
しかしその反面、着ている服は革や毛糸を編んで造られた、実に簡素且つ安価なものだった。
〈太陽のない世界〉において、服装とは着用者の社会的地位を表す絶対の指標である。その常識に基づいて判断するなら、彼女の身分は庶民ないしは労働者階級に位置することが分かる。
彼女は召使いとして生み出された人造人だ。
王都から遠く離れた鉱山で働く鉱奴や、その監督役である騎士とそれに仕える兵士達――彼等の世話をするのが彼女に与えられた仕事である。
しかし彼女は現在、その務めから一時的に解放され、別の任務をこなすよう言い渡されていた。
その内容は、近辺の探索である。
何か普段と違う点を発見したのならつぶさに報告せよ、との命令だ。その言に忠実に従い、彼女は予め決められた道を巡回し続けている。
「―――――?」
不意に、女の視界の端で何かが動いた。
ランプを掲げ、女は眼を細めて闇の帳の向こうを見詰める。よくよく目を凝らしてみれば、歪に湾曲して伸びる大きな針葉樹の根本に、奇妙な物体が転がっているのが見て取れた。
それは、巨大な卵だった。
その大きさは駝鳥の卵を優に凌いでおり、ちょうど人間の頭と同程度。淡く発光する濃い青色の殻には、金色の神秘的な模様が描かれている。
実に奇怪な代物だった。
卵は造り物のようにも見えたが、同時に、殻の下には自然の息吹が眠っていることを見る者に直感させた。
女は屈み込み、臆することなく卵へと手を伸ばして―――
「―――誰」
付近から、革靴が芝生を踏む独特の音が聞こえた。それに反応して、女は手を引っ込めて素早く顔を上げる。
突き出されたランプの明かりが、黒い影を捉えた。
そこにいたのは女だった。
彼女と同じ、女性型の人造人。顔立ちと髪型に多少の差異こそあるが、体格と着ている服は全く同一だった。
女にはその人造人に見覚えがあった。
自分と同じ第005号砦に所属している同僚で、製造されてから今日まで何度となく顔を合わせた間柄だ。だからだろうか、女は目の前の人造人の佇まいに対して、何か言い知れぬ不安感と強烈な違和感を抱いた。
目の前の女は、闇の中で生きる者が持つべきものを持っていない。
ランプを持っていないのだ。何も見えない状態で、どうやってここまでやって来たというのか。
女は立ち上がると、ランプを掲げて目の前の人造人を改めて観察する。
服は土で汚れ、肌には黒い斑模様が浮き上がり、眼球は白く濁っている。生気というものが根こそぎ削げ落ちた、まるで死体が立って動いているかのような、そんな有り様だった。
人造人は皆一様に無表情で感情に乏しく、無機的な印象が強い。
色素の薄い肌は暗闇に溶け消えてしまうことから、人間からは幽霊の類に誤認され不気味がられるということもしばしばある。しかし、それにしても目の前の人造人は異様だった。
女は無意識の内に、一歩後ずさる。
その瞬間、人造人が女に襲い掛かった。
肉薄する――というよりは、ぐらりとしな垂れ掛かるような、力の抜けた所作。それでも非戦闘型の人造人を捕まえるのは容易で、女は呆気なく捕縛される。
手首を掴まれ、抱き寄せられる。そして――唇が重なった。
掴んでいたランプが手から零れ、地面に落ちる。口付けを交わす二人の女の影絵が、森の間隙に伸びた。
「―――――」
衝撃と困惑が女の脳の中で巻き上がる。しかしそれは、生理的な嫌悪感によって怒涛の如く押し流された。
強烈な死臭。
鼻孔を突く悪臭に不快感を示し、女は人造人を引き剥がそうと試みる。しかし尋常ではない力によって利き手と腰を締め上げられており、離れることが出来なかった。
相手の舌が軟体動物のように蠢き、唇を割って女の口内に侵入する。
口の隙間から唾液が流し込まれる――瞬間、女は激しく咳き込んだ。
「ぶ――んぐっ、ぶぐ」
流し込まれたのは唾液ではない。もっと悍ましい何かだった。
明らかに人間の唾液ではない、粘性を帯びた液体が大量に喉に注ぎ込まれる。それは瞬く間に頬が膨れるほどに口の中を満たし、更には気道をも塞がれてしまい、呼吸困難に陥った。
女はより一層力を込めて異常な人造人を引き剥がしに掛かる。
相手の頭を掴み、全力で押す。
努力の甲斐あってか、徐々に相手の頭が離れた。二人の唇を繋ぐように、青白い粘液の汚穢な架け橋が伸びている。互いの口を行き来するように流動するソレは、まるでそれそのものが生き物であるかのように不気味に蠢いていた。
粘液で繋がる二人の有り様は、ちょうど生物が交配する姿に似ている。
「ぐ、んぐ―――っ!」
徐々に二人の距離が離れいく。その最中――ソレは現れた。
ぽこり、と間の抜けた音を立てて、人造人の口から丸い物体が押し出された。白い寒天状のソレには、金色の模様が張り付いている。
眼だ、と女は直感した。
ソレは今までに一度も見たことのない不可解な生物が持つ目玉なのだと、彼女は本能的に確信する。
一瞬、金色の眼と視線が合う。
目玉は粘液の架け橋の中でくるりと身を躍らせると、膣を昇る精子のように、勢いよく女の口の中へと入り込んだ。
「―――――!」
女が声にならない悲鳴を上げる。無表情だった顔を恐怖に歪めて、女は全力で目の前の人造人を突き飛ばした。
火事場の馬鹿力のなせる技か。人造人は呆気なく地面に崩れ落ちる。そしてそれに倣うように、女もまた地面に倒れ込んだ。
美しい顔を恐怖と苦悶の様相で歪め、女はのた打ち回る。
対照的に、倒れた人造人は、ぴくりとも動かない。
暫くして、女は死んだ。窒息死だった。
暗い森に静寂が戻る。倒れたランプの茫洋とした明かりが、二つの死体を照らし出していた。
「―――――」
「―――――」
不意に、二つの死体が全く同時に起き上がる。
死体達はランプを置き去りにして、まるで何事もなかったかのように、ふらふらとした幽鬼めいた足取りで闇夜の中を彷徨い始めた。
後には置き去りにされたランプと、巨大な卵だけが残される。
―――かぱり
不意に、卵の殻が真っ二つに割れた。
卵の中には卵黄と卵白の代わりに、青白い粘液の塊と金色の瞳の目玉が収まっている。目玉は周囲を確認するように一瞥すると、割れた殻を内側から補強してくっつけ、何事もなかったかのように無害な卵の擬態を続行した。