アンドレ・マルローの生涯と予見
アンドレ・マルロー(André Malraux、1901年11月3日 – 1976年11月23日)はフランスの行動的知識人と称され、冒険家とも。又、作家でもある。代表作は「王道」や「人間の条件」(ゴンクール賞受賞)。
私がアンドレ・マルローの名前を初めて聞いたのは大学生時代、18歳か19歳だと思う。とてつもないバイタリティーを持って世界各国を周りに回っていたという記憶がある。私も将来、世界各国を回りたいと思っていたので、きっと彼の行動力に感嘆したのであろう。
アンドレ・マルローが20代の時、インドシナのバンテアイ・スレイ寺院に赴きデヴァター像を盗み出して逮捕され、注目を集めた。略奪品の時価総額は約100万フランであった。この事件は予想外の結果をもたらし、破壊される予定だったバンテアイ・スレイ寺院は報道騒ぎによって保存・修復されたのである。
デヴァター像
以下、マルローの生涯で特筆すべき数点を挙げよう。
冒険と旅行の人生: 彼は若い頃から非常に広範な地域を旅し、異なる文化や国々を経験した。彼の冒険的な性格は、彼の作品や人生観に大きな影響を与えた。
1920年代から、彼が訪れた国・地域は以下の通りだが、これを見てもいかにマルローが旅行を好み行動派であったことは分かるであろう : サイゴン(ヴェトナム)、シンガポール、バンコク(タイ国)、 カンボジア、中欧、 東欧、 北アフリカ、 近東、 アラビア、 ペルシャ、 インド、 日本(数度訪問)、 アメリカ、イスファハン(イランの一都市。エスファハーン州の州都。テヘランの南約340kmに位置する)、アフガニスタン、 ビルマ、 マレ―シア、 シンガポール、 香港、 中国、イエメン(サナア/サヌア)、 ソ連、 スペイン、 ギリシャ、 エジプト、 イラン、 スイス(ルツェルン)、 ニューヨーク、 イタリア (ローマ、シチリア)、 アルゼンチン、 ブラジル、 チリ、 ペルー、 ウルグアイ、 メキシコ、 フィンランド、 セネガル(ダカール)など。
美術品の売買と経済的成功: 美術品の取引が彼を経済的に豊かにし、世界中を旅行する手助けをした。
政治的な活動: 反ファシストの活動家として、スペイン共和国軍との戦闘やレジスタンスへの参加など、彼は政治的な舞台にも積極的に関与した。これが彼の社会的な信念や視点を形成したことは言うまでもない。
複雑な家族構成と結婚歴: 彼の複雑な家族構成や結婚歴は、異なる女性との関係が彼の人間性や思考に影響を与えたのは想像に難くない。
彼の連れ合いは次の通りだが、4人の女性のうち、2人は配偶者(妻)である。
Clara Goldschmidt (妻・クララ : 1921-1947)
Josette Clotis (パートナー)
Marie-Madeleine Lioux(妻・マリ=マドレーヌ : 1948-1966)
Louise de Vilmorin (パートナー)
1947年にクララと別れ、1948年に異母弟ロランの未亡人であるマリ=マドレーヌ・リューと再婚。マルローは彼女が1966年に亡くなるまで添い遂げた。又、アンドレとルイーズの間に友情が芽生え、晩年、二人の仲は劇的に復活して、二人は共同生活に入るが、それから半年も経たないうちに、ルイーズはマルローに看取られながら、1969年12月26日、息を引き取ってしまう。死因は心臓発作で突然のことだった。ヴェリエールの邸宅の庭園に埋葬されたルイーズ。その墓碑銘は彼女が銘句(épitaphe)とした「助けて!」だった。
ド・ゴール将軍の政権復帰後: 1959年から1969年まで国務大臣兼文化大臣を務めた。
地中海文明から太平洋文明への予見: マルローが地中海文明から太平洋文明への移行を予見したことは興味深い。これは彼が歴史や文明の流れに対する独自の洞察を持っていたことを示唆していると思う。旧い文明は衰え、やがて新しい文明に取って代わられるということであろう。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカの国務長官を努めたジョン・ヘイ*は「地中海は昨日の海、大西洋は今日の海、そして太平洋は明日の海である」と述べた。
パクスアメリカーナ*は、キリスト教とヒューマニズム、近代科学を礎とするヨーロッパ文明を継承発展させ、その輝きを頂点へと高めると同時に、20世紀後半には新たな太平洋文明の幕を開く原動力ともなった。近・現代、それは、大西洋と太平洋という世界の二大洋地域が人類繁栄の中心域をなす「大洋文明」の時代であり、その中心は大西洋から太平洋へと推移しつつある。21世紀はまさに「環太平洋文明」の時代である。
マルローはマルローなりのいわゆる、「精神性」を求めての長旅だったようだ。これはマルローがネルーに会った際、マルローはインドの精神性を尋ねたが、ネルーからは今のインドが必要としているのは、物質であるとの返事だった。
*ジョン・ミルトン・ヘイ(英語: John Milton Hay, 1838年10月8日 - 1905年7月1日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官、作家、ジャーナリスト。1898年から1905年まで、ウィリアム・マッキンリー、セオドア・ルーズベルト両大統領の下で第37代アメリカ合衆国国務長官を務めた(在職死)。中国に関する「門戸開放宣言」を発表して、帝国主義政策を推進した。
*パクス・アメリカーナとは、「アメリカによる平和」という意味であり、超大国アメリカ合衆国の覇権が形成する「平和」である。ローマ帝国の全盛期を指すパクス・ロマーナ(ローマによる平和)に由来する。「パクス」は、ローマ神話に登場する平和と秩序の女神である。