70話 無我の境地
「ヴァルター…お前…、どうしたってんだよ」
もう、二十回近いトライ。
恐ろしいほどの数が配置された部屋が連なり、その先を見るたびに心が折れそうになる。
たぶん、同じ部屋を数回開いたりもしただろう。
そして衛兵がやってくるたびに、行動を中断しなければならない。
ヴァルター、クリスは、その状況において精神的な疲労を感じていた。
――しかし、その疲労が目に見えたのを境に、だ。
頭を抑えて、苦痛の表情を露わにするヴァルター。
その様子が自然と変わっていたのを、クリスは感じ取っている。
足取りが重くなって、気力を吸い抜かれたようで…
次第に、苦しむように見えていた表情が和らいでいったように感じた。
雰囲気。それがおかしいと思った時、目の前にいるヴァルターがそうでない感じがして、不気味さに襲われた。
……ふと、浮かべる笑み。
その瞬間クリスの肌が、脳が、神経が、ピリついたような物を浴びたようだった。
目には見えない。だが、ヴァルターから発せられるその波は感じられる。
クリスが、幾度とない魔獣との戦いで身に着けた、生態的能力。
――魔力感知。
本来なら感じられるはずのない、発するはずのない、ヴァルターからの魔力。
当然、エンティオ人に魔力は殆どない。
…それなのに、強く感じるこれは。――魔力…なのか?
いつも戦いの中で感じるそれとは、似て非なるもの。クリスは感じていた。
「お、おい…どこへ行く!」
「……こっち。」
意識はある。しかし、肩を落としたままよろよろと、ヴァルターは歩き出した。
さっきまでとは違う、まるで…行き先が定まったような。
どこにあるかもわからない物を探すより、その場所を明確に知っているかのような。
……いや、感じ取っているのか?
「ヴァルター…何かわかったのか…?」
「……感じる。定められた道筋が」
「一体…何を見つけた?」
「――真実、かな」
――こいつが何を言っているのか、よくわからない。いや、こいつは本当に…ヴァルターなのか?
あり得なくとも、そう思ってしまう程の違和感がある。
しかし、クリスはその足取りを追って行くしかなかった。
どこへ? それはわからない。 何を見つけた? 真実…だとか、訳の分からないオーラを発しながら、訳の分からないことを言う。
それでも――、なにか引き付けられる。
視覚でも、嗅覚でも、聴覚でもない。血の奥底にある異質な物が、クリスの足を動かす。魔力のようで、そうではない何かを発するヴァルターに惹かれる。
迷いもせず、ヴァルターは角を曲がる。
網目状をしたこの建物を、先が見えるように進む。
恐らくこの屋内構造は、重要機密ないしそれに関するブツを、奥深くに隠すため。
部屋数が異常なほど多いのも、同じような書庫がいくつもあるのも、最高レベルのブツを隠匿するためのカモフラージュ。
ヴァルターがフィオナから聞いてきた通り、ここはそういう役所だ。
「お、おい…! そっちは外側だぞ!」
「……こっちへ来て。私へ付いてきて」
「わ、私…? 一体どうしちまったんだ…。」
先ほど、『目当ての物は建物の中心にある』と言ったのはヴァルターだ。
なのに今度は、迷いもせず外方向へ向かう。
一つ目の角を曲がり…二つ目はカーブを通って…。
段々と中心から離れている――と思いきや、内側への通路へ向かって。
北、東、いくつかの部屋を通り越して…西。
「…なぁ、本当にわかってんのか? お前、さっきからどこに向かってんだよ…!」
「―――ここよ」
「なんだよ…どこかと思えば普通の部屋じゃんか…。――っておい⁉」
いくつも見てきた、資料庫の扉。
その中に一つだけ、他部屋との距離が開いた扉。
しかし、見かけは他と差異が無い。
――石造りの壁。その冷気が漂う廊下に、扉を開閉する音が木霊した。
だが、安易に開閉したのではない。扉は、やや硬く施錠されていた。
ヴァルターは、その施錠を金属部ごと取り除いたのだ。力づくではない、動力的にも何かおかしかったが、とにかくこじ開けた。
不思議で不気味。その様子を変えぬまま、中へ。
**********
未だ口調がおかしいヴァルターは、明かりの一つもない暗闇の奥へと入っていく。
室内は恐ろしいほどに埃っぽい。まともに息をしようとすれば、呼吸器が拒否反応を示す。
「ここは…普通の書庫? 他となんら変わりねぇじゃねぇか!」
「いいえ、ここにあるわ。…だって、他と違うもの。」
他と違う…。その言葉から数秒間、書庫を見渡す。
あぁ、わかった。それは、この暗闇が示していた。
「光が…一切無いのか。外側の何部屋かはまだしも、中心部の部屋でさえ天窓があった。たとえ夜でも、そこから月明かりが差していたな…。だが、ここはそんなものが何一つない。」
ここまで時間をかけて見た中で、どこだって中を確認できた。月明かりが差していたから。
しかし、ここだけがない。
――それに意味があるとするなら…ヴァルターの言う通り、やはりここなんだろうか。
「ねぇ、坊や」
「誰が坊やだ…。」
「そうね…ここから、この辺りまで。どれも民族史を記した書物よ。それも、あなた達の教科書には記されていないような、詳細な記録までね。」
「……マジか。」
ヴァルターが指示した辺り、そこに連なる書物の埃を掃って表紙を見る。
―――古い文字だ。確かに帝国の言語ではあるが…文字の成り立ちからして、相当昔の史書であることが伺える。
しかし、学のないクリスには読めない。
「それら全部、そのバッグへ詰めてね」
「わかった。……お前はどうするんだ、」
「私は―――、こうするわ」
こうする、と言った次だ。
――その書物が積まれていた棚、その上段部をこじ開けた…。
「に、二重底になってやがる…。――そりゃ、鍵か?」
上段部は二重底。その内側に入っていたのは…一つの小さな鍵。
そこは以前に開けられてから、長い時間が経っていたようで。随分と錆びついていた。
すると今度は、棚をずらし始めたのだ。
暗くてよくわからない…。だが、ヴァルターが手探りで何かをしているのはわかる。
―――ゴリゴリと、石と石が擦りあう音。…横開きの、隠し扉?
棚の奥にあったそれは、ヴァルターによって中身が引っ張り出された。
「……隠し部屋の中の、隠し場所に…本?」
「―――フフフ…」
バサバサと、乾いて質の悪くなった紙の音。
先程クリスが手に取った物よりもよほど古いであろう…別の書物が。
手に取るヴァルター。……感じる『何か』が、一層強まった。
不敵な笑み
震えた声
喜びか…否、これは―――泣いているのか
「やっと…やっと手にしたわよ? ヴァルター・リンク・ランシュタイン…あなたが探し求めていたもの、ようやく…」
「ヴァルター…! いや――、お前…誰だ…?」
この時、うすうすと感じていた違和感がようやく確立された。
こいつは…ヴァルターじゃない。
目の前にいる男は間違いなくヴァルター・ヒューリーズである。しかし、存在がそれではないのだと。
「さぁ…ここからはあなたのターン。私がこれから成すべきことは…答え合わせ、かしらね―――」
「お、おい…⁉」
その言葉の後、ヴァルターの皮を被ったその存在は、倒れた。
まるで魂を抜かれたように…すぅっと。
**********
…またこれか。この無我の境地から戻って来る感覚は…
激しい頭痛
脳内と、胸の騒々しさ
―――意識の中で微かに残る…エミリオの声
毎度のことではあるが、無我の境地に陥っている間の記憶はない。
今回は直前に、エミリオと会話していた。そして俺の意志で…
ようやくわかった。
この状態で俺はエミリオに…繋がった神に、この体を委ねていたのだ。
…なんで、こんなことになったのかな。
ただ、この薄れる意識の中で。
エミリオの余韻によって、一つだけわかっていることがあった。
――目的は…果たされたんだ




