その声に振り向いてはならない
今でもたまに思い出すのだ。
あの日、見上げた階段の踊り場、夕日に照らされ笑っていたのは誰だっただろうかと。
だがその度に頭を振る。
思い出せない記憶は振り返らない方がいい……。
ハッと目が覚めた時、僕は病院のベッドの上だった。
そのどこか古びた病院にも覚えがなく、ただただ混乱したのを覚えている。
医者が言うには「逆行性健忘」と言う奴で、目が覚めて駆けつけてきた家族の事もはじめはよくわからなかった。
僕はどうも数年ほど眠っていたらしい。
このまま目覚めないかもと言う事で、そう言う長期入院が可能な病院に移され、眠っていたのだそうだ。
どうりで記憶がないにしろ、全く覚えのない感覚だった訳だ。
たくさん話しをされたり写真を見たりして、家族の事は割とすぐ思い出した。
記憶自体は何というか、見た映画を思い出した感じで自分自身の事だと言う実感は持てない。
だがやはり家族と言うのは妙な繋がりがあるのか、ふとした仕草や匂い、目元の皺や腕のほくろ、足の傷跡などを見た時に、あぁ、とストンと納得した。
そうやって何となく大体の事は思い出した。
思い出した事を覚えたと言う言い方が自分的にはしっくりくるのだが、とにかく心配をかけた分、家族は安心してくれた。
だが、やはりどうしても思い出せない部分がある。
記憶を失った時の記憶だ。
思い出そうとすると、突然、ザザッとノイズが走りTVの砂嵐の画面の様になる。
それはすぐに治まる時もあれば、しばらく続く時もある。
そのノイズが走ると僕はどうしようもない頭痛に襲われる。
とりあえず、自分で思い出すのは無理だと思い、家族に尋ねてみる。
すると妙に歯切れ悪く「あの時、あなたは階段から落ちたのよ」だとか「一人の時に階段から転がり落ちてな…」とか「発見が遅くなって…」とかもごもごと言うのだ。
一瞬、良からぬ事が頭に浮かんだ。
もしかして家族は、僕を殺そうとした?
それに失敗したけど僕は記憶喪失だから都合が良かった?
僕は…どうして階段から転がり落ちた…??
その瞬間、今までにないくらいガツンと痛みが走った。
あまりの痛みで目の前が真っ暗になる。
ドクンドクンと脈打つ心音に同調し、のたうち回るほどの痛みがずきんずきんと脳内に走る。
叫びたい、いや、叫んでいたかもしれない。
頭を抱え、ベッドの上でもがき苦しむ僕に、通りかかった看護師さんが何か言っている。
でもズキンズキンと走る痛みの音が大きすぎて、何を言われているのかわからない。
「あああぁぁぁぁ……っ!」
痛みで声が漏れる。
それに被さる様に、頭の奥の方からけたたましい笑い声が聞こえる。
『あはははははははははははははははははっ!!』
遠い遠いサイレンの様で、近くで聞こえているようなその笑い声。
ザザッとはいるノイズ。
痛みにのたうち回り、その砂嵐の合間に何かを見る。
赤い赤い夕日。
古びた洋館の壊れかけた階段の踊り場。
窓から差し込む血のような赤を背負い、髪を振り乱して女が笑う。
『あはははははははははははははははははっ!!』
そうだ……。
皆で肝試しに廃墟に行ったんだ……。
まだ日が出てるから大丈夫だと思ったんだ……。
山崎は?!
松本は?!
横山は?!
『あはははははははははははははははははっ!!』
僕は一番後ろを歩いてた。
階段を登っていたら、突然、腕を捕まれ突き落とされたんだ。
その時に見た。
それが幽霊なのか生きた人間なのか、僕にはわからなかった。
『あはははははははははははははははははっ!!』
ただ夕日を背負い、尋常でない笑い声を上げていた。
突き落とされた僕は下に落ちたけど、他の皆は2階に逃げて行った。
その時、僕は見た。
ニタリ……と女が満足げに笑うのを……。
窓から差し込む真っ赤な夕日で表情はわからなかったけれど、口元だけがニタリ…と笑ったのだ。
僕は気を失った。
心の中で皆に『振り向くな!逃げろ!!』と叫んだ。
『あはははははははははははははははははっ!!』
女の気の狂ったけたたましい笑い声だけが、いつまでも頭の中に響いていた。
ハッと目が覚めた時、僕は病院のベッドの上だった。
そのどこか古びた病院にも覚えがなく、ただただ混乱したのを覚えている。
「なぁ、ここって赤い女の屋敷だろ?!」
「マジで入るのかよ?!」
「まだ明るいし、平気じゃね?!」
「そう、赤い女が出ても、3回振り向かなきゃいいんだし、何とかなんだろ??」
「3回振り向くと、囚われるって言うけど……囚われるってどういう事?!」
「さぁ??」
思い出せない記憶は振り返らない方がいい。
記憶喪失になった僕が言うのもなんだが、そういうものだ。
それはきっと、自己防衛なのだ。
記憶を失う前の自分が、自分を守る為に最後の賭けに出た証なのだ。
それでもたまに思い出すのだ。
あの日、見上げた階段の踊り場、夕日に照らされ笑っていたのは誰だっただろうかと。
あれが何者で何だったのか……。
けれど恐らく、もうその事を考えない方がいい。
1度目はあの夕日が差し込む階段の踊り場で……。
2度目は思い出そうとして……。
僕は振り返った。
あれ以来、あの気の狂うような頭痛は起きていない。
あの女がけたたましく笑わなくなったのだ。
けれどどこかでニタリと笑っている。
満足そうに口を歪め笑っている。
たとえあの笑い声が聞こえても、振り向いてはいけない。
僕にはもう、パスの猶予はないのだから……。
(同じ書き出しで始まる話②)