其のニ
2
至福の時を過ごした前田広太は、にやけ顔を隠しもせず、家路へと急ぐでもなく歩いていた。
昨夜、朋美が店に来る前に、クリスマスプレゼントの話を、重田一仁店長としていたのを思い出した。
歌のプレゼントはどうだ、と一仁は言った。演奏は、任せろと言う。乗ってみることにした、広太だった。
父が経営する自転車屋の隣の、我が家に着くと、さすがに、緩んだ顔を引き締めて、自分の体の匂いを嗅いでみる。後藤朋美の移り香がないか確かめて、玄関を開ける。
開かない。
すると、後ろから声がかかった。
「広太、帰ったか。ついてこい」
父の広介だった。広太の、気の弱さは父親譲りだと言われていたが、今夜の父は、いつもと違っていた。少し、怖い感じがした。
帰りが遅くなったから、怒ってるのだろうか。それにしても、無言で前を、足早に歩いていく。時折、人とすれ違うと、顔を背けるような仕草をする。広太は、なんだか、不安な感覚に襲われ始めた。
どこへ行くのか、聞くことも出来ずにそれでも、踏み切りを渡って、線路沿いの二車線の道路横の、幅広な歩道を歩く頃には、どこへ行くのかが薄々わかってきた。
二人は、JRの地元の駅に着いた。そこには、母の広子もいた。母をみて、広太はやっと気づいた。
父も母も、よそ行きの佇まいだ。
田舎の汽車は、深夜までは走っていないから、今、ホームに停まっている、鹿児島駅方面行きが、最終だった。
「広太・・・」
母の広子が、広太の腕を掴みながら、涙を浮かべていた。
朋美は、こんなにも朝を清々しく起きられたのは、何年ぶりだろうと、夕べの広太とのことを思い出して、にやついていた。
二階の自分の部屋を下りて、キッチンのテーブルにつく頃には、いつもの、寝ぼけまなこを演じていたけれど。
ファーストキス、ではなかったけれど、こんなにときめいたのだから、これが本当の最初だと、勝手に解釈した。
将来の話をした。結婚式は教会で、子供は最低二人は欲しい。お茶碗や湯飲みもお揃いで、なんて話になると、広太は苦笑いしていた。
「女の話しは、現実的で、細かい」などと言いながら、笑った。
確かに、友達の言うとおり、広太は若干、めんどくさいところもあるにはあるが、男なんてみんなそんなもんだろう。それが、母性本能をくすぐるのだと、朋美は思っていた。
やる時は、たぶんやってくれるに違いない、とも思っていた。
そして、朋美にもクリスマスのプレゼントの、密かな企みがあった。
朝の時間に、何を食べ両親と何を喋ったか、記憶にないまま、学校へ向かう。
学校を挟んで、広太と朋美の家は東と西にあるので、学校に着くまでは、広太と会うことはない。
教室に入る。すぐに、広太の机に目を向けるも、そこには、無人の机があるだけだった。
いつも、朋美より遅いのだから、気にも止めずに席につく。
友達との、他愛のない話をしながらも時おり、教室に入ってくる生徒を、チラチラと見ていた。友達が、
「広太、遅いね~」なんて冷やかしも、慣れたもの。だけど知らずに、唇を隠してしまう。バレるわけもないのに。
今日は、遅い。
そのうち、始業のチャイムが鳴った。
なんだろう、この胸騒ぎは。
空の机を見やる。昨日、店長の重田一仁が風邪気味だと言ってたから、移ったのだろうか。
じゃあ、今日は、お休み?
先生もなぜか、広太の欠席のことに触れない。
とにかく、部活が終わり次第、広太の家に行ってみよう、そう思った。
日が暮れるのが早い季節の、部活動の終わりは、早い。
何か、お見舞いを持っていったほうが良いのだろうけれど、逢いたい一心で、取るものも取り敢えず、広太の家に向かう。
広太の、家には、人だかりがあった。
不動産屋のネーム入りの薄手のジャンパーを着た大人たちが、『売家』の看板を、据え付けていた。
それを見て、その場にいるのが怖くて、信じられなくて、朋美は踵を返して、歩き出した。
「そんな、そんな・・・」
訳がわからず、混乱していた。
二人の見ていた夢は、はっきりと遠くまで見えていたのに、突然の嵐にあった小舟が、灯台の明かりを見失ったように、漂い始めた。
何の前触れもなしに、いなくなった。広太も、知らなかったのだろうか。何も言わなかったのだから、そうに違いない。朋美に何も言わないなんて、ましてや、そんな素振りを、知ってて見せないほど、広太は芸達者ではなかったはずだ。
噂はすぐに、狭い町に、蔓延した。
大きな借金は、不動産を処分して、なんとか返せるが、友達から借りた分が、未払いになる。
気の小さい前田広介のことだから、それすら、自分自身を許せずに、居なくなった、そんな噂だった。
時は流れた。
後藤朋美も、三年生になった。
夏の始めに、重田一仁のレンタル屋が店じまいした。
本人は、また東京に出るという。バンド仲間のつてで、働き口があるからだと言っていた。
広太との思い出の場所が、ひとつ、無くなった。
孤独が、一番の敵である。だからか、クラスメイトは代わる代わる、朋美にメールした。朋美が眠るまで、話し相手になった。朋美を、ひとりぼっちにはしなかった。優しい親友たち。
夏休みも、七月中は部活がある。
夏の部活の最終日。部室で、着替えていると、同級生の、マナミが、息を切らして、駆け込んできた。
いきなり開いたドアにビックリして、取り敢えず、胸を隠す。
「朋美っ!広太が、帰ってきてるって。でも、JRの駅に向かって歩いてるって。だから、だから・・・ヤバイよ。急げ」
言葉が終わらぬうちに、着替えを済ますと、朋美は脱兎のごとくに、部室を駆け出した。
手には、この季節には似つかわしくない、毛糸のマフラーを握って。
「荷物は、あたしが家まで届けるよ~。ガンバっ朋美~!」
駅までは、学校から近かった。
スカートがめくれることなんて、おかまいなし。どうせ、下には、ジャージをはいてるし、いっそ、まとわりつく、スカートを脱ぎたいくらいだ。陸上部のエースの面目躍如。カッ翔んで行く。
短い坂を登って、目の前に踏切。それを渡ると、左へ。線路沿いの、二車線の道路横の幅広な歩道を、全速力で走る。
金網フェンス越しに、駅に停まってる黄色い汽車が見えた。
あれがこちらに走り出したら、鹿児島市内向け。だとすれば、あれに乗ってる可能性大。
さらに加速する。ボルトの時速44キロを上回ってんじゃないかと思うほどの、スピードであっという間に駅まで五十メートルまで来たとき、自分の荒い息とともに、発車のベルが聞こえた。
駅前の自転車小屋の数台を、蹴散らしながら、駅構内へ。腰高の改札で、上半身を乗り出す。二両編成の車両の、右、左、もう一度、右。
見つけた!広太だ。確かに、広太だ! 汽笛を鳴らし、動き出す、車両。
朋美は、すぐさま踵を返すと、駅舎から飛び出した。今来た道を、逆戻りだ。
なんとか気づけ、あたしに気づけと、走った。
右に、汽車がディーゼルの音を響かせながら、加速していく。
線路と道路が最接近するのは、踏みきりだ。
周りの目なんて、気にならなかった。
朋美の目には、頭のなかには、広太、広太、広太だ。
踏切の前に、叫んだ。
「こうたぁー!こうたぁー!」
気づかない。あのばか、気づけよ!
汽車が、わずかに、朋美に先行した。
すると、広太が、朋美に気づいた。
窓に両手をつけるやいなや、大きな窓の下のツマミを掴んで持ち上げようとした。
上がらない。
相席の、おじさんが、片方を手助けしてくれる。
「せいの!」で持ち上がる、窓。同時に、半身を乗り出す、広太。
「ともみぃー!」
車輪の音をものともしない、絶叫。
「こうた、こうた」
朋美は、マフラーを右手に掲げた。
去年のクリスマスプレゼントの、手縫いのマフラー。長くて、二人で巻くはずだったマフラー。つまずいた拍子に、後ろへ流れる、マフラー。
それでも朋美は、汽車を、広太を追いかける。少しでも、長くこの目で見ていたい。なのに、涙が邪魔して、ボヤけてしまう。
踏切前に汽車は、朋美を置き去りにしていった。
「こうたぁ、こうたぁ・・・」
人目もはばからず大声で、泣いた。
3へつづく
*これはフィクションです。