霞ヶ浦くんはいつも儚い
「危ないっ!!!」
つんざくような悲鳴が誰かから聞こえてくる。
通行人の中から、大きなネジが外れる音、そしてバキッンという金具が切れる金属の響き。
それが何を示したか、予想がついた誰かが叫んだのだろう。
重力に従い、物量にしたがって直下していく看板。人通りの多い歩道で起きたハプニングは、幸か不幸か私たちをターゲットとして選んでいた。
いや、正しくは私たちではなく、私の隣で呑気に楽しげに歩く彼氏が標的であった。
真っ逆さまに落ちてくる近くの居酒屋の看板。それは私の隣の存在へ向かっていく。
「くっ……!」
悲鳴が聞こえた瞬間、動き出した私は隣で呑気に歩いている彼を弾き飛ばす。
そのまま押し倒すように私たちは地面へ倒れる。
その直後、彼のいた場所には看板が大きな衝撃音を発しながら誰に直撃することなく、その場に残骸を散らばせる。
その行く末を見守った私は、助け出した彼へ身を案じる言葉を投げる。
「大丈夫!?」
少し緊迫感があったのか、彼は驚いた顔をしていたが、優しく柔らかい笑みを浮かべる。
「うん、大丈夫だよ。朧月さんも大丈夫?」
「えぇ、私は大丈夫。怪我とかないかしら」
「うん、見ての通り」
そう言いながら、儚げな、消えそうな笑顔を私へ送る。
怪我がないならいい。これだけの惨事が起きて、何事もないなら良かった。
と心から安堵したはずが、よくよく彼の腕を見ると半袖から見える白い肌に擦り傷ができているのを見つけた。
「霞ヶ浦くん。腕から血が……」
「え?」
仰向けの彼はその小さな顔を動かして、左腕を確認する。その緩やかな瞳が捉えたのは、左肘から出血している自身の腕であった。
「すぐ消毒を」
私が焦って、押し倒した体を起こし、ポーチから絆創膏と消毒液を取り出そうとした時。
「大丈夫だよこのくらい」
と、霞ヶ浦くんは自由になった体を起こして私を制した。優しく、今にも消え入りそうな声で。
「でも、消毒はしなきゃ」
「このくらい、唾でもつければ――」
霞ヶ浦くんは言い終えることはなく、起き上がった体が後ろへ倒れる。それを慌てて、後頭部を強打しないよう抱きかかえる。
「霞ヶ浦くん!?」
そう大声で呼んでも、彼は目を覚まさず。病弱な印象を与える白く透き通る肌が、さらに青ざめているのを確認した私は溜め息をこぼす。
「また、気を失っちゃった……」
霞ヶ浦くんは意識を失っていた。
理由は簡単で、『血を見たから』卒倒したのだ。
「もう、今日は散々……」
看板が彼に向かって落ちてくるし、ちょっとした出血であっても霞ヶ浦くんは気を失う。病弱なほど、今にも消えそうな彼は、あらゆる不幸がその身に襲いかかる体質であり、ほんの血でも意識をなくすほど気弱であって、儚い存在であった。
◆
霞ヶ浦くんと私――朧月との出会いは、突然でもあった。これだけ書くならば物語の冒頭として申し分ないほどではあるものの、実際には不幸の連続である。
高校1年生の頃、入学式当日。桜が咲き誇り、暖かな春の陽射しが新しい門出を祝福してくれる並木道。
そこで私は盛大に遅刻した。
「やばいやばいやばいやばい」
今まで運動部で培った脚力を存分に振り回し、なんとか入学式の1日目での遅刻という汚名を回避しようと私は爆速で駆け抜ける。
桜の咲き乱れる中、私の髪も乱れ、スカートもたなびいて、タイツがきしきしと悲鳴をあげる。
ただ、そんな姿をさらけ出していても遅刻という恥ずかしい思いをするよりマシだろうという意識の方が強い。
「なんで、お母さん起こしてくれなかったの!?」
怒りにも似た矛先は、母親へ。恨みをこめるわけでもなく、後悔から滲んだ嘆きであっても事実は変わらない。
ローファーが蹴りあげるコンクリートの音は虚しく響く。
そんな中、焦った私がその瞬間を見つけられたのはある意味奇跡とも言えた。
「おい、今ぶつかったよな?」
桜並木から外れた道。横道に繋がった部分、電柱の近くで1人の男子高校生が何人かの恰幅のいい男に囲まれていた。
「うわ……」
聞こえて立ち止まった私は、露骨に嫌な顔をしていただろう。息が乱れ、髪もボサボサであっても、目の前に起こっていることの方が嫌だった。
大勢――といっても数名、5名ほどだろうか。その男たちが1人の小さな男子高校生を取り囲んでいるのだ。
逃げられないように。逃がさないように。囲んで、覆っている。
「ごめんなさい……」
萎縮してしまった男子高校生は、消え入りそうなほどの小声ではあるものの謝罪を示す。
それだけではなく、頭も下げて非を認めている。しっかりと謝っている彼に対して、むしろ調子に乗った男たちは。
「あぁ? 聞こえねぇよ、もっとはっきり喋れよ」
「ごめんなさい……」
「なんだって? 貧弱な体の奴は声も貧弱なのかな〜?」
「ほら、腹から声出せよ」
「こうやって、殴れば声の出し方少しは分かるだろ」
そう言った金髪の男が、頭を下げる男子高校生の腹を思いっきり殴ったのだ。
そこそこの、それも謝る彼は意識もしていないからこそダメージは甚大だろう。
「がはっ……!?」
殴られた衝撃で漏れ出た空気が音を立てる。
そのまま、彼は地面に跪く。呼吸を整えようと必死に、それでも痛みに耐えるように。
その儚げな姿に、自然と歩み寄っていた。
誰もが遠巻きに、自分たちも巻き込まれないよう遠ざかる中、私だけがその集団に近づく。
「ほら、謝ってみろよ」
「せっかく教えてあげたんだからさ、やってみなよ」
「ほらほら、ちゃんとできまちゅか〜?」
次第に下卑た声が近くなる中、たった1つの澄んだ、透き通るようで、消え入りそうで、まるで霞のように儚い声が私の耳へ届く。
「ご、ごめんなさい……」
取り囲む集団の体の隙間から見えたのは、消えそうなほどの泣き顔を浮かべた男の子の顔であった。
それを確認した私は、いつの間にか歩調を早め、駆け出していた。
女の子らしくもない大声を上げながら。
「おい!!」
その声に驚き振り向いた男たち。その中でも、私の真正面にいた染めたばかりの金髪の男へ向けて、頬へ向けて。
「ぶごっ!?」
クリーンヒット。見事、恰幅のいい男には、上段の蹴りが炸裂。
まるで漫画のように受け身を取れず、勢いを殺すこともできず、私の蹴りを食らった男は地面へ突っ伏す。
「な、なん――ふべっ!?」
もう1人、蹴り飛ばした男の近くにいた茶髪の男へも返しの蹴りをお見舞いする。
綺麗に1回転。そのまま、うつ伏せに倒れる。
その様子を呆然とした男子高校生は、一部始終を見ていた。刮目して、見開いた瞳でしっかり捉えた。
「彼から離れなさい!」
不安で、恐怖で歪んだその瞳が捉えていたのは、取り囲んだ集団を一蹴した女子高生の美しくも気高い姿であった。
◆
「君、大丈夫?」
私が蹴りを食らわせた集団は、ノックアウトした2人を連れてそそくさと逃げ去った。
ご丁寧に「お、覚えてろよ!」という悪役らしい捨て台詞を吐き捨てて。いや、覚えるつもりなんて微塵もないからいいのだけど。
それよりも、犠牲者である彼への心配の方が先であった。殴られたわけでもあり、怖い思いをしたはず。
その辺のフォローをしたわけだが。
「うん、大丈夫だよ」
彼は儚げな笑顔で答えた。気丈に振舞っているのか、それとも慣れているのか。
私には分からないが、大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう。
「次からは道を変えた方がいいね。また出会うかもしれないし、顔も覚えられたでしょうし。面倒かもしれないけど、遠回りしてでもこうならないよう注意した方がいいね」
少しお説教じみた感じになってしまったが、男子高校生のことを思うならそれが賢明だと判断したからだ。
これだけひ弱というか、意志の主張すら弱々しい彼が狙われるのは言わずもがな。さっきの連中に目をつけられる可能性は充分にある。
そんな親切心か、それともお節介か。ただ、儚い彼には何かしてあげないといけない。そんな気がしたのだ。
「そうだね、気をつけるよ。ありが――」
と、言い切る寸前。優しく受け取った男子高校生は、後ろへ倒れる。
とっさの出来事で慌てて私が手を伸ばし、その体を支えたのは奇跡でもあった。
思わず抱きしめた体は小さく、軽く、細い。そして、童顔な顔立ちにきめ細かい肌は白く透き通っていて、まるで少女のよう。ただ、1つ青ざめた様子を差し引けばこのような状況は、非常にメルヘンチックだったと思う。
「まさか、殴られたから?」
意識を無くした彼の姿を確認した私はそう見当をつけた。だって、それ以外の理由が思い至らないし、例えあれほどの恐怖を味わったからというには遅すぎる消失である。
それにしたって、殴られたことについても遅く響いているのか、はたまた健気に耐えたのか。
後々になって判明したのは、男たちに囲まれた恐怖と殴られた痛みと衝撃で、いつの間にか意識を失ったとのこと。
それだけ、腕の中でグロッキーな彼は儚い存在で、いつ消えてもおかしくない不幸の少年。
そんな彼――霞ヶ浦くんと出会った私はいつしか付き合うようになり、そして彼のことをある程度知ったからこそ言えるものがある。
「儚すぎる……」
病弱で、気弱で、弱々しく、今にも消えてしまいそうで、泡沫のようで、風前の灯火のようで、淡い彼が消えないよう決意した出会いであり、彼に降りかかる不幸を払い除ける物語が、穏やかな陽射しの中始まった。
面白ければブクマと評価ポイントをしていただけると嬉しいです。
短編として上げましたが、連載として書きたいものではあるので連載版は書き上げ次第投稿します。
とりあえず、短編として、触りとしてという感じでお楽しみいただけたら幸いです。