妖精綺譚『水晶牢の小さな翅付き姫』
……煙るほどの濃霧を抜けた先、運河の畔に物言わぬ人型が上がった。
一見すると、それが人であったと判別するのはとても難しかった。というのも、上半身は流木のように枯れ果てていてるのに反して、下半身は腐った水草のようにドロドロに溶けていたからだ。ミイラと化した頭部の、落ち窪んだ空洞の眼が語りかけてさえこなければ、それがかつて人であったとは、とうてい分からなかっただろう。
フロウ・ブランドン警部補は、やれやれと深く息を吐いて、ツバ広の帽子を目深に被り直した。
「……妖精の仕業でしょうか?」
そう言ったのは、ブランドン警部補の背後に隠れるようにして遺体を眺めていたトウル・トール巡査長である。
この配属されたばかりの若者は、遺体を恐れているようであった。
そんなことでは、この稼業は勤まらないだろうと思いながらも、まぁ、初めて目にするのがこれではいささか仕方がないかと、ブランドン警部補は部下の職業資質を案じつつ、「そうであろうな」と首肯した。
「では、我々の仕事はここまで、ということになるのでしょうか?」
「トウル君」
「はいッ!」
存外に鋭い呼びかけにトール巡査長の背筋は伸び上がった。
「確かに、妖精狩りは軍の対妖精部隊の管轄ではあるが……覚えておくといい。狂気に憑かれ人を襲うのは、皆、人工の妖精――ホムンクルスだ。《灰燼の吸光層》から生まれた『灰の妖精』ではなく、人が造った模造品なんだよ。それ故に、我々はそれを調べなければならない。誰が、この人工妖精を造ったのか? なぜ、この人工妖精は狂気に憑かれてしまったのか? この人殺しはそもそも、事故なのか、故意なのか? 故意だとしたら、誰が、何のために、この人物を殺さなければならなかったのか?」
唖然と聞いているトール巡査長に、紫煙を薫らせるようにブランドン警部補は口の端を歪めて笑みを浮かべた。
「ほら、仕事は山とあるだろう」
「ええ…しかし、」
「しかし、何だね?」
トール巡査長の視線がちらちらと遺体の方へ向いていることに気づいていながら、ブランドン警部補は、あえて問いかけていた。
「……その、大丈夫なのでしょうか?」
「何がだね?」
「妖精を追う者は死に囚われる、と言いますから。たとえ、妖精自身を追うのでなくても、なにか祟られそうで」
ああ、とブランドン警部補は納得の吐息を漏らした。
「気持ちはわからなくはないがね。しかし、虎穴に入らずんば虎児を得ずとも言うだろう。それでは、行くとしようか」
言うなり、ブランドン警部補は歩き出してしまった。
「え? 行くって、どこに行くんですか。警部補?」
慌てて、トール巡査長は後を追いかけた。
「専門家のところだよ」
フロウ・ブランドン警部補は皮肉めいた笑みを口の端に浮かべて、背後の部下に仕方なく応えていた。
夜露を小瓶に詰め終えて銀糸を編み込んだ麻袋にしまい込むと、大気が身動ぎするようにクロウ・リードの頬を撫でていった。
黒衣を翻して鍔広の帽子の奥から東の空が灰色に白み始めるのを確認すると、色の違う右瞳が奇妙な痛みを訴えたような気がした。まるで《灰燼の吸光層》の揺らぎそのものを肌で感じ取ったかのように眉根を歪めて、クロウは足早に赤煉瓦の工房へと戻った。
アパルトメント一棟をまるまる工房にしているそこは、いっさいの外光が入り込まないようにと、窓という窓を厚手のカーテンで封じていて、内部は薄闇を閉じこめたような空間であった。
「……光よ」
クロウの口から短い呪文が漏れ出ると、工房内部に取り付けられた《灰銀灯》が次々と淡い黄昏色に灯って、それは導くようにひとつの扉に向かって列を成していった。
『103号』とプレートに刻印された部屋に入り、帽子と外套を脱いでコートハンガーに掛けて、ほうっと息を吐くと、鈴を鳴らすような声がクロウを出迎えた。
「ああ、イーシャ。起きていたのか」
書斎机の片隅に設置された小さな格子籠――水晶でできた――に向かってクロウが応えると、それはこくりと頷いて歌うように笑った。
水晶の牢に閉じ込められて、水晶の玉座に鎮座する、それは水晶の姫であった。
銀糸の髪に翡翠の瞳、大理石のごとく白く艶やかな肌を絹の薄衣で包んでいる。その背には透き通った硝子のような翅が二対、己の存在を主張するかのようにわずかに震えて光の粉を散らしていた。
「待っていろ。いま食事の用意をする」
銀糸を編み込んだ麻袋から夜露を詰めた小瓶を取り出して、薔薇を象った透明な杯にそれを満たす。その様子を眺めていた翡翠の瞳が大きく瞬きをすると、餌を運んでくる親鳥を待つ雛のようにイーシャは小さな両手を開く。水晶の格子戸を開いて、小さすぎるイーシャの手には大きすぎるであろう薔薇の杯を乗せ渡すと、感謝の意を表してか、イーシャはにこりと笑みを浮かべてから、薔薇の端に口づけをして夜露を飲み干した。
その姿は、まさに密を吸う妖精のそれであった。
空になった杯を捧げ返して、イーシャは小首を傾げた。心なしかクロウの表情が曇っているように感じたのだ。
「……ああ、よくない流れを感じたのでね」
苦笑交じりにクロウが心情を吐くと、イーシャはさらに小首を傾げた。
「いや、《灰燼の吸光層》が乱れたわけでも、《灰銀》が降ってきたわけでもないようなんだ。しかし、あの感じは……何か、《灰の妖精》たちが騒ぎ立てているような気がしてね」
《灰の妖精》たちが騒いでいる――それは不幸が足音を立てて近づいていると言っているようなものだ。
錬金術士としては《灰の妖精》との邂逅は《賢者の石》を手に入れたに等しい出来事なのだが、同時に、それ相応のリスクを否応なく負わされるというのものでもある。願わくば、彼らとの邂逅は避けたい。というのが、錬金術士クロウ・リードの意志なのである。二度は、ゴメンだと。
考え事をしている。というよりは、落ち込んでいるようにイーシャの目には映ったのだろう。小さな手をそっとクロウの指に添えて「大丈夫だよ」と言うように頬を寄せる。手のひらに収まるほどの小柄な妖精は、しかし、確かに暖かな脈動を伝えて「私はここに在る」と明示したのだ。
「すまない。心配させてしまったようだ。そうだな、起こるかどうかもわからぬことを気に病んでも仕方がない。仕事に取りかかるとしようか」
フッ…と声もなくクロウが笑うと、「そうだよ」とでも言うようにイーシャは顔を上げて、微笑むように歌い始める。
鈴を揺らすような歌声が大気を振るわせると、それに呼応するかのように空気中の塵にも似た何かが明滅を始める。
それは大気に溶けた《灰銀》だ。それがイーシャの歌声に共鳴して、わずかに光り輝いているのだ。
クロウは色の違う右瞳でそれをとらえ、イーシャの歌声そのものを捕まえようとするように両の手を開いて中空に泳がせた。
何度か繰り返して採集した《灰銀》は砂の粒程度のモノではあったが、クロウは満足した様子でそれを手近にあったフラスコ瓶にしまい込んだ。
そして、イーシャに礼を述べて歌を止めさせると《灰銀鋼》を錬成するための準備に取りかかるのだった。
ふと、フロウ・ブランドン警部補は目深に被った帽子の奥から灰色の空を見上げた。厚い厚い《灰燼の吸光層》。その向こうには『太陽』が在るはずだが、四十六年、生まれてこの方、目にしたことは片手の指で数えられる程度しかない。
「ところで、トウル君。君は錬金術について、どの程度の見識があるのかね?」
「は? 錬金術…ですか?」
唐突な問いかけにトウル・トール巡査長は、アカデミーの生徒にでもなったかのように記憶のページをまさぐった。
「教科書に載っている程度しか知りませんよ。あの《灰燼の吸光層》を生み出し、世界のエネルギー事情を一変させてしまった技術だということくらいしか……」
「うむ。まぁ、そうだな。一般的には、そう教えられているし、軍人や工房師でも目指さない限りは、それ以上を知ることは容易ではないからな。しかし、トウル君。この仕事を続けていくつもりなら覚えておきたまえ。異変の影には必ず錬金術が関わっていると」
「はぁ…必ず、ですか?」
「必ずだ」
懐疑的というよりは理解が追いつかないといった感じのトール巡査長に、ピシャリとブランドン警部補は言ってのけた。
息を呑むように、ブランドン警部補の言葉を咀嚼して頭蓋の内側に染み込ませると、トール巡査長はぶるりと背筋を振るわせた。
「そ、それは、事件の影に妖精アリ、ということでしょうか?」
ん?とブランドン警部補は顎を上げた。
「そうとも言えるが……しかし、妖精と錬金術は別モノだよ。近しいモノではあるがね。同じモノと考えてしまうと足下をすくわれかねない。気をつけたまえ。――ほら、ここだ」
そう言って、ブランドン警部補が視線を投げかけた先には、赤煉瓦でできた二階建てのアパルトメントが濃霧と蔦に隠れるようにして鎮座していた。
……眠るように水晶の台座に腰掛けていたイーシャは、奇妙な気配を感じ取って尖った耳と翅をピクリと震わせると、小さく、か細く鳴いて、来訪者の存在をクロウに告げた。
「……わかっているよ。招かざる客、という奴だ」
《灰銀鋼》を精錬している釜の様子から目を離さずにクロウは応えると、指をパチリと鳴らした。
遙か彼方で扉が開く音がして、しばらくすると、二人の男が工房室の入り口に姿を現した。フロウ・ブランドン警部補とトウル・トール巡査長である。
やぁ、とツバ広の帽子を頭から外しながら、
「朝早くにすまないね」
と、ブランドン警部補は、言葉だけは申し訳なさそうに言った。
視線はそのまま釜と炉の様子に注視しながらもクロウは、ブランドン警部補の表情がまったく平常のままであることに気付いていた。というよりも、フロウ・ブランドンなる人物が、他人の都合などで困惑したりする質ではないということをクロウ・リードは知っているのだ。
それでも、
「そう思うのなら、出直してくれても良いのだよ。一度火を入れた炉を、そう安々と止るわけにはいかないのだから」
と、皮肉のひとつも言いたくなるというものだ。
だが、ブランドン警部補は涼しい顔でさらりと言ってのけた。
「ふむ、気にせず作業を続けてくれたまえ。我々は、君の手が空くまで待たせてもらうとするよ」
険悪とも呼べる沈黙が舞い降りて、クロウとブランドン警部補の間に鎮座した。
それに耐えられなくなったのは、トウル・トール巡査長であった。
「あのぅ……」と、恐る恐る吐息の如く言葉を発した。「自分は、何をすればいいのでしょうか?」
応えたのはブランドン警部補ではなく、炉を注視しているクロウであった。
「そういえば、見知らぬ気配がひとつあったが、何者だ?」
「おっと、紹介するのを忘れていた」とブランドン警部補。「うちの新人だよ。トウル・トール君だ」
名を呼ばれて、トウル・トール巡査長は背筋を伸ばして敬礼し、自らの階級と名を告げた。
「後学のために連れてきたんだ。よろしく頼むよ」
「……ふん。よろしくするかどうかは、その巡査長しだいだろう」
にべもなく言い放つクロウに、トール巡査長はあきらかにたじろいでいたが、ブランドン警部補は相も変わらず涼しい顔で話を続けた。
「で、そこの愛想の欠片もない黒ずくめが、クロウ・リード。我が国で、五本指に入る錬金術士の一人だよ。そして――」
すぅっとブランドン警部補の人差し指が動いて、机の上にある水晶でできた鳥籠を指し示した。
「彼女はイーシャ。『水晶の姫』だそうだ」
水晶の鳥籠の中で小さな人がにっこりと、鈴を鳴らすような声で微笑んだ。「よろしく」と。
「――ひぃッ! よ、妖精!?」
「そう、妖精だ。だからこそ、彼らに助力を求めるのだよ」
怯えて、一歩も二歩も後ずさったトール巡査長に、ブランドン警部補は諭すように言った。
「……私のイーシャを化け物みたいに言うのはやめてもらいたいものだな。それで、なんだ?」
炉を見つめたままで、クロウは吐き捨てるように言った。
「おや、もういいのかね?」
「聴くだけならば、このままでもいいだろう。いいから話せ」
待っていましたとばかりに咳払いをひとつして、「では、」とブランドン警部補は運河の畔に上がった奇妙な遺体について語り出したのだった。
「……そいつは『水棲妖精』の成れの果て、あるいはなり損ないだろう」
状況説明だけを聞いて、クロウはそう言い切った。
「写真もあったのだが、必要なかったかね」
胸ポケットから取り出しはしたが、行き場をなくしてしまった一枚の写真をヒラヒラと弄びながら、「さすがだな」とブランドン警部補は嘆息した。
「しかし……ふむ、なり損ない…なり損ないか。だとして、素体は何だと思うね?」
「警部補の想像通りだと思うがね」
うーん、とブランドン警部補は頭をかいた。
「……そいつは困ったな」
「ああ、まったく迷惑千万なことこの上ない」
「え? え?」
困惑と辟易が二つの口から吐いて出ると、トール巡査長はまともに当惑して、狼狽えることしかできなかった。
「ど、どういうことでしょうか?」
「目下のところ、被疑者死亡というわけだよ」
やれやれ、とブランドン警部補は肩をすくめてみせた。
「それだけで済むのならば、話は簡単なのだがな」
「……ふむ? もったいぶらずに話してもらえると助かるのだが」
「あったのは、一体だけなのだろう? 番いか、製造者がいるはずだ。放っておくと面倒なことに………そうか、そういうことか」
言葉半ばで大きく嘆息して、クロウ・リードは眼光だけを鋭くブランドン警部補へ向けていた。
睨まれた方は、頷く代わりに口髭を撫でて、それを笑みの形に歪めた。
それを見たクロウは、またしても大きく嘆息した。
「貴様、端からそのつもりだったな。軍が動く前に、そいつらを捕らえたいがために、私のところに来た。そうだな?」
「是非、そうしてもらえると助かるのだがね」
フンと鼻を鳴らしてクロウは、その意識を再び炉へと向けた。
沈黙が降って落ちると、炉を熱する炎の息吹をやたらと強烈に感じて、トール巡査長は気圧されたように唾を飲み込んでいた。
どれほどの間、炎の爆ぜる音ばかりが空間を占拠していたことだろう。
その沈黙を破ったのは、囁くような歌声であった。
水晶の籠の中にいるイーシャが、か細い喉を鳴らしたのだ。それは人の言葉ではなかったため、ブランドン警部補とトール巡査長には小鳥のさえずりのようにしか聞こえなかった。だが、当然のごとくクロウはイーシャの言葉を理解して、嘆息していた。
「……やれ、と言うのか。イーシャ?」
クロウの色の違う両目が翡翠の瞳を捕らえると、水晶の姫は頷くようにほほえんだ。
わかったよ。とクロウは躊躇もせずに炉を止めると、ブランドン警部補に向き直り、「現場まで案内しろ」と吐き捨てるように言い放った。
急激なまでの錬金術士の態度の変わりように驚きもせず、まるで、そうなることを予見していたかのようにブランドン警部補は落ち着き払って「いや、助かるよ」と口髭をひと撫ですると、女王陛下に相対するように深々とイーシャに向かって頭を下げた。
「水晶の姫君のご英断、いつもながらに敬服いたします。此度も、あなた様の錬金術士をお貸しいただくこと、このフロウ・ブランドン、心よりの感謝を申し上げさせていただきます」
ブランドン警部補の口上を聞いていたトウル・トール巡査長は、慌てて警部補を真似て深々と頭を下げた。
すると、
二人の頭に向かって、イーシャは鈴の音のように一声鳴いたのだった。
遺骸はすでに工房庁直轄の研究機関に運び出された後であった。それでも、クロウ・リードは金剛石のレンズを嵌め込んだ片眼鏡を通して、色の違う右瞳で遺骸があったとされる場所を眺めていた。
「それは…何を見ているのですか?」
証拠が一つも残されていない場所をひたすらレンズ越しに眺めている錬金術士を不思議に思い、勇気を振り絞ってトウル・トール巡査長が問いかけた。
「過去、現在、未来だ」
「……はい?」
理解が追いつかずに、トール巡査長は素っ頓狂な声を上げていた。
経験不足な部下と言葉が足りない錬金術士のやりとりに、「やれやれ…」と言わんばかりの吐息と共にブランドン警部補がすかさず助け船を出す。
「そう結論だけを言わずに、何をするための道具なのかくらいは説明してくれてもいいのではないかね?」
「必要ないだろう」
「まあ、そう言わずに」
それには応えず、ふと、何かに呼ばれるようにクロウは空を見上げた。そこには《灰燼の吸光層》が相も変わらずに茫漠と広がっている。
「……よくないな」
誰にというわけでもなくクロウがつぶやくと、ブランドン警部補の表情が鋭くなった。
「何が見えたのだね?」
「え? え?」
トール巡査長は状況の推移について行けずに、ただ狼狽えるばかりであった。
「ブランドン、回転式拳銃はあるな?」
「もちろん」と、空を、というよりも《灰燼の吸光層》を眺めたままのクロウに向けて、ブランドン警部補は上着の内側から銃を引き抜いて見せた。
「こいつが必要な状況になるとは、勘弁してほしいものだな」
「それはこちらの台詞だ」と言い終わるより早く、クロウはぐいっと右の拳を突き出した。
「――使え」
開かれた拳には銃弾が乗っていた。弾頭に《灰銀》を利用した特別な弾丸だ。
「すまんな。助かるよ」
受け取った弾丸を回転式拳銃に装填しながらブランドン警部補は一応の礼を述べたが、クロウはそれを「ふんッ」と一笑に付した。
「あとできちんと請求書は送ってやる――ほら、おまえにもだ」
そして、狼狽えてばかりいるトール巡査長にも、弾丸を投げて寄こした。
飛んできた数発の《灰銀弾》を取りこぼしそうになりながらも、すんでの所でなんとかキャッチに成功したトール巡査長は、慌てて拳銃を抜き出して弾丸を装填した。一応といわんばかりに構えては見せるが、完全に腰が引けている状態だ。なんとも情けない姿で、ゴクリと大きく唾を飲み込んで、トウル・トール巡査長はどうにかして心情を言葉にして吐き出すことに成功した。
「……な、なにが、起きるんでしょうか?」
それが合図であったかのように、どこからともなく霧が発生して視界を遮りだした。
「ま、犯人は現場に戻る。というヤツかね」と、ブランドン警部補は軽口をたたくような口調で言うが、同時に、視線を右に左にと絶えず動かして周りへの警戒を決して怠ってはいない。
「ところで、そろそろ何が見えたのか、教えてくれてもいいのではないかね?」
霧が濃さを増して、空気そのものが重たくなったような感じがする。ブランドン警部補は、引き金にかける指にわずかに力を込めた。
相も変わらず一点を見つめ続けるクロウ・リードは、砂粒ほどの逡巡を吐息にして、金剛石の片眼鏡を外した。
「………ここにあったのは人間の死骸だ。妖精でもなく、なり損ないでもない。ただの人間だ」
「にんげん? しかし……」
あの半身の状態はどういうことだ? とブランドン警部補が問うより早く、クロウの言葉が続いた。
「喰いかけだよ。奴らの」
「奴ら? 奴らだと? 複数体いるのか?」
「……少なくとも、三体はいる。『狂気に憑かれた人工妖精』が――」
そこまで言ったとき、あたりを包み込む霧がまるで身動ぎでもするかのように金切り声を上げた。
ひぃッ、と喉を鳴らして、トール巡査長は思わず引き金を引きかけた。
「な、何なんですか、今のは?」
「トウル君、落ち着きたまえ」と言いながら、ブランドン警部補は二歩、三歩と後退していた。
錆びた金属塊を万力で締め付けているようないびつな音が、二重、三重にも重なり合って霧の中をうごめいて、少しずつ少しずつ間隔を狭めて迫ってきているのを感じる。
「……軍に応援を頼みたいところだが……――ところで、水晶の姫のご助力は賜れるのかな?」
そう呼びかけられた錬金術士は、色の違う右瞳を右の掌で覆い隠している。
「……いま繋いでいる――来るぞ!」
一際大きく霧がうごめいて、地獄の亡者たちの大合唱にも似た雄叫びが響き渡る。と、次の瞬間、霧のベールを切り裂いて十五の牙と爪が三人に襲いかかってきた。それは上半身が人間の女で下半身が蛇の五体の人工妖精たちの襲撃であった。
声にならない悲鳴を上げるのと同時に、まともに狙いも定めずにトウル・トール巡査長は連続して三回、銃の引き金を引いていた。放たれた弾丸はどれも濃霧を斬り裂くにとどまり、一体の人工妖精の牙がトール巡査長の首元に届こうというところで、しかし、それは阻まれた。
横合いからブランドン警部補が人工妖精に弾丸を二発撃ち込んだのだ。
もんどりを打って倒れたそれは、二、三、痙攣をしたかと思うと、銃創から徐々に灰と水に、その体組成を分解させていった。
それを見てか、単に銃声に怯えたのか、残りの三体はあきらかに距離をとって錆び付いた鳴き声で威嚇してきていた。
残り、三体――
いや…五体いたはずだ。あと一体はどこに――?
肩で息をしながら、トール巡査長は慌てて視線を右に左にと動かした。
そこで目にしたものは、灰と水に分解され始めている人工妖精がブランドン警部補の足下に転がっている姿であった。
ブランドン警部補は、二体の人工妖精を仕留めていたのだ。
巡査長は、少しばかりの安堵と、己の不甲斐なさを恥じて、ひとつばかり深呼吸をした。
「すみません、警部補。たすかりました」
「うむ。『灰銀弾』は貴重だ。できるだけ引きつけて、確実に仕留めてくれ」
「はい――」
「……とはいえ、奇妙な動き方をする上に、かなり速いからな――」
残弾を考えると、なかなか厳しいかな。と、ツバ広帽子の奥にあるフロウ・ブランドンの頭脳が冷や汗混じりに呟いていると、色の違う右瞳を押さえていた手を離してクロウ・リードが短く叫んだ。
「ブランドン!」
それは合図であった。
「ありがたい!」とブランドン警部補は口の中で吠えると、並び立つトール巡査長に視線を送った。
「トウル君、これから人工妖精たちの動きが止まる。その隙に、しっかりと狙い撃ってくれたまえ!」
「――は、はい!」
そうこうする間に、クロウ・リードは右手親指の腹を噛み切って血を滴らせると、その一滴を色の違う右瞳に垂らした。
「我は我。汝は汝。銀の杯に満たされし灰より生まれし精霊の御子よ。我が愛の証たる魂の欠片、赤き雫を汝に捧ぐ。応えたまえ。応えたまえ――」
ぐっ…と瞬間、苦悶を口の端から漏らすクロウ・リードの灰色の右目が深紅に染まり、さらにさらに、その色を濃くしてルビーの如き光を湛えた瞳の奥で『門』は開かれた。それは異なる場所――工房に在るはずの水晶の格子檻に繋がって、水晶の台座に腰掛けている小さな翅あり人が映し出される。眠りから覚めたばかりと言わんばかりに顔を上げた水晶の姫――イーシャは開かれた『門』に向かって白く小さな両手を開いて、翡翠の瞳だけで微笑んだ。
そして、薄い唇がゆっくりと開かれ――歌が世界に響き渡った。
あたりに漂う霧がソプラノの音量に身悶えするように震えると、意志を持っているかのよう動き、蠢いて、蛇の半身を持つ人工妖精たちに絡みついた。すると、人工妖精たちは明らかに苦しみだして、鉛の型に嵌め込まれでもしたかのように身動きを止めてしまった。
「――いまだ!」
ブランドン警部補の短い叫びと共に、三度の銃声と、三つの断末魔の叫びが響いた。
自らの工房に帰り着く頃には、黄昏が《灰燼の吸光層》を染め上げていた。
まったく、とんだ一日だったな。と溜息交じりに扉を開いて、外部からの光が遮断された暗がりへと身を躍らせる。
「……光よ」
クロウ・リードの口から短い呪文が漏れ出ると、工房内部に取り付けられた《灰銀灯》が次々と淡い黄昏色に灯って、導くように『103号』とプレートに刻印された部屋に向かって列を成していく。
部屋に入り、帽子と外套を脱いでコートハンガーに掛けて、ほうっと息を吐くと、鈴を鳴らすような声に出迎えられて、クロウはむず痒いような苦笑を漏らした。
「……戻ったよ。イーシャ」
書斎机の片隅に設置された小さな格子籠――水晶でできた――に向かってクロウが応えると、水晶の台座に鎮座する翅付きの姫君はこくりと頷いて、歌うように両の手を伸ばしてきた。
「できれば、君の力を煩わせたくはなかったのだが……ともかく、助かったよ。ありがとう」
言いながら、傷の癒えていない右手親指の腹をぐっと押し込んで血液を滲ませると、それを水晶の格子籠に向かって突き出した。
イーシャは広げていた両の手でそっとクロウの右手親指をつかむと、口づけをするように傷口に舌を這わせて、赤い雫を啜った。とても、おいしそうに。
それは『力』を行使した代償行為である。
妖精達は『力』を行使するたびに人間の『愛』を代償として求めるのだ。では、妖精達が求める『愛』とは何であるのか。言葉や態度もそうであるが、彼ら彼女らが求めるものはもっと実物的、物質的なものなのである。「愛している」などと囁きかけたところで、彼ら彼女らは満足などしないのだ。
求められているのは魂を構成する物質であり、それを臆面も無く供することができる精神性なのである。
故に、血肉を供することが『愛』を与えることになるのだ。
イーシャが血を啜るたびに色の違う右瞳が疼くような気がして、苦悶とも微笑ともとれるような奇妙な感じにクロウは目元をわずかに歪めていた。
というのも、すべてはこの『クロウの愛』を得るために、イーシャが仕込んだことなのではないかと疑いたくもなる――そんな出来事であったのだ。
いや、考えすぎか。と脳裏をかすめた思考を捨て去ろうと、目頭だけで頭を振る。すると、クロウの心情を察してか、イーシャが問いかけるように小首を傾げた。
「……ああ、そんな心配はしていないさ。ブランドン達ならいまごろ、人工妖精の遺体を工房庁の研究機関に引き渡すための立ち会いをしている頃だろうよ」
そうなの。と小さな翅を振るわせて、イーシャは血を啜っていた傷口にそっと掌を添えると、口づけをするように歌を奏ではじめた。空気中に漂う灰銀がイーシャの歌に反応して淡く静かに輝きを湛える。すると、見る見るうちにクロウの右手親指の傷口がふさがり始めて、ものの五分もしないうちにきれいさっぱりと直ってしまった。
すっかりきれいになった右手親指を眺めて、クロウは苦笑を漏らした。
「なんだ? 私の血だけでは飽き足らずにブランドン――いや、あの若いの…トールとか言ったか…あれの血でもご所望なのかね?」
皮肉的なクロウの言い分に、ちがうとイーシャは頭を振って、拗ねたように頬を膨らませた。
「ああ、すまない。どうも君にいいように利用された気がしてね。嫌みのひとつも言いたくなってしまったんだよ。だって、そうだろう。君は《灰燼の吸光層》を通じて、あの人工妖精たちの暴走を感知していた。以前からね。だからこそ、私に見せたかった。愛を失した妖精と、注ぐべき愛が足りなかった者の末路を。違うか?」
まあ、ブランドンたちが私のところにやって来たのはただの偶然だろうがね。と付け加えつつ、クロウ・リードは水晶の姫に問いかけていた。
私の『愛』は足りなかったのかと。
眠るように翡翠の瞳を閉じて、イーシャは小さな吐息を漏らした。それは、肯定とも否定とも取れる所作である。あるいは、呆れて溜息でも吐いたのだろうか。そのどれであったとしても、クロウにとって眼前にある小さな翅あり人の胸中を推し量るのは容易なことではない。たとえ、色の違う右瞳によって彼女と繋がっていたとしても、だ。
姿形は似通っていても妖精と人間では、その在りようが異なっている。
理解し合うというのは、簡単なことではない。
ましてや、錬金術士と妖精。使役する者とされる者だ。両者の間にあるのは契約で、信頼や絆ではないのだ。
それでも、妖精は『愛』を求めるのである。
夢から覚めるようにゆっくりと瞳を開いて、イーシャは微笑んだ。それは美の女神が水晶の彫刻に降臨されたかのごとく超然としていて、吐息すら出来ずにクロウは見とれてしまっていた。だが、見とれていたのはクロウだけではなかった。静寂と時間までもがイーシャの微笑みに支配されていた。
ふと、小さな翅を振るわせて、生きた彫刻は右の拳を自らの顔に近づけると、人差し指を立てて、そこにそっと唇を添える。そして、捧げ物でもするように、ゆっくりと右手を開いて差し出すと、凍えた時を溶かすように歌い出した。
人の言葉ではない妖精のそれで紡がれるイーシャの歌に、大気に溶けた灰銀が反応して淡い輝きを放ち始める。室内にある全ての灰銀が輝き出すと、イーシャの歌声はさらに高まり、より灰銀の輝きが強まり出す。
世界が光に満ち満ち溢れていくようだった。
クロウは灰銀色の右瞳が疼くのを感じていた。
――ああ、そうだ。
あの日、あの時、私は『光』に出会ったのだ。
《灰燼の吸光層》によって、空も、太陽も、月夜も奪い去られた、この灰色の世界で。
それを奇蹟と呼ぶこともできるだろう。
運命だったと言えるのかもしれない。
だが…………
「言葉などで括れるような関係ではないだろう。君と、私は――」
《灰燼の吸光層》から生まれ落ちた《灰の妖精》と契約を交わした錬金術士――あるいは、戦場で右瞳を失い彷徨っていた見習い工房士と、それを救った翅ありの小人――などと事実を並べたところでわかるはずもない。
まったく……と、クロウは胸中で溜息を漏らしていた。
やはり、私は試されていたのだな。と頬をわずかにほころばせて、イーシャの小さな手を取ると、傅くように膝をついていた。
「イーシャ……我が《賢者の石》よ。君との邂逅を果たした時から、この肉体も精神も全てはあなたのものだ。私の『愛』が変わることはない。この『灰銀の瞳』に誓って。永遠に、だ」
水晶でできた格子籠の中で、水晶の台座に腰掛けて、錬金術士の言葉を聞いていた『灰の妖精』は満足そうに翅を振るわせて、一際大きく歌うように鳴いた。
それが喜びであったのか、哀しみであったのかを知ることができたのは、錬金術士クロウ・リードだけであった。
〈 了 〉