巣立ち
彼女をまともに見られなくなったのはいつからだろうか
初めて二人で出かけた場所も、その時の笑顔も、勇気を出して握った手の温もりも、顔を真っ赤にしながら告白したことも、何でも覚えているのに。この前、デートしたときのことはほとんど思い出せない。
女優を目指して努力していたのをずっと隣で見てた。彼女の部屋で芝居の稽古に何度も付き合ったし、オーディションの結果を二人でドキドキしながら確認も何度もした。最初にオーディションの合格通知を見たときは抱き合って喜んだ。ただ、合格通知を重ねていく度に最初ほど喜べなくなった。それでも、できるだけ自然に喜んでいるように見せようとしてた。
自分には何もないように感じてたんだと思う。何も無い自分が横に彼女と一緒に並んでいていいのか分からなくなってた。ずっと、何かをしなければと焦燥感に駆り立てられてた。けど、平凡なままで。
だから、毎日続いてたLineの返信をするのが少し憂鬱になって、初めて1日返信をしなかった。
凍結した路面でスリップしたトラックに彼女が轢かれたのは奇しくもその日だった。
冷たくなった彼女の顔を見たとき、悲しいはずなのに涙が出ない。彼女の友人たちが涙を流して悲しんでいるのに、彼氏である俺はただ無言で座っていた。悲しいはずなのに強いなという言葉だけが耳に残っている。
彼女が亡くなってから三か月が過ぎ、季節は春になろうとしている。新生活の始まりからかどこかワクワクしている世間を横目に自分が立ち止まっていることは分かっても一体いつから立ち止まっているのか全く分からない。彼女と付き合った日?最後にデートした日?それとも死んだ日?
俺の誕生日にポストを開けて目に入った封筒には彼女と同じ苗字が書かれていた。彼女の両親とは何度かあったこともあり、二人からの手紙ということはすぐに理解できた。ただ香典返しも前に受け取っていたし、手紙が送られてくる理由には見当がつかなくて、けど、手紙を見た瞬間から心臓がうるさいぐらいにバクバクと鼓動したのを感じて、自分の部屋に駆ける。
封筒には折りたたまれた紙が入っていて、開いてもないのに誰が書いたのか理屈を超えたもので感じる。彼女だ。
俺の名前の下に書かれていた書きかけの文章を見て彼女との思い出が一気に浮かび上がってくる。
「私の特別なあなたが好きです。これからも」
この瞬間彼女のことを本当に見た。生前はまともに見られなかったくせに。
これからもの続きに何を書こうとしていたのか今となってはもう分からないけれど、少なくともずっと立ち止まっている俺を彼女は許さないだろう。
やっと前に進める。いつから立ち止まっていたのかをもう思い出せない。もうそんなことは関係ない。
今度は彼女を置いて、俺が前に進んでいくのだ。