怪しいぞ!二丁目のラーメン店(後編)
腰を落ち着かせ、溜め息を堪える。
卓上に二つの冷水を浸したコップが置かれ、店長の笑みが隣を過ぎていく。店内は予想以上の繁盛、味云々の情報がなかったといえど、この数は驚きだった。
まだ夕飯時にも早い。
カウンター席が厨房を囲って半円を描き、方形の店内の壁際を埋めるように卓が配置している。
店の様相は、少し異質だった。
料理中の店長と会話が行えるよう設計された空間の間取り、オネエ姿ではあるが客と会話をしながらも手際は素早く正確で、片手間とは思えぬほど話題を盛り上げる。
客にも人気のある店長、そして繰り出されるラーメンが来ると、客は黙って堪能していた。
麺とスープを啜る音、賑わう客と店長の声、食器の固い音などが犇々(ひしひし)と俺達を取り囲う。
一言で評するなら――物凄い隠れスポットを発見した。
こんなにも素晴らしい店があるのか。
店長の風貌の奇態さも、店の魅力を引き立てる武器になっている。尚且つ、食事中に見せる客の反応を見るなり、味も申し分なさそうだ。
まさか、こんな店があるなんて……。
そう、だからこそ、俺は言いたい。
「綾辻、向かい側の家より凄い事になってるな、この店内」
「え、これがラーメン店では普通なんだろう?」
「ここしか経験が無いんだろう?」
「そうさ」
「胸を張るな」
「スケベ」
「違う」
「ヘタレ」
「それも違う」
悉く会話が噛み合わない。
俺は心底から綾辻を恨みたくなった。
いや、遺憾ながら感謝すべきなのかもしれない。この隠れスポット、一見すると学生の姿は見受けられない。
専ら、大人が席を占有している。
店長は忙しそうだが、切迫した様子はない。純粋に会話を楽しんでいる、或いはそう見せる演技が可能なほどの余裕。
こんな素晴らしい店を営む彼――いや、尊重して彼女――の性根を疑うのは失礼だろう。
目前で注文表を凝視する綾辻に視線を移した。
俺も彼女に頼んで確認すると、メニュー表の内容はバラエティーに富んでいた。
ラーメンの種類もさることながら、サイドメニューまで豊富。
完璧な店だ。
「こんな素晴らしい店があるなんて」
「うーん?喜んでくれたなら、私としても畳重だけれど、些か目論見と違うというか……」
「下らない事を企むよりも、いまは純粋にラーメンを楽しむぞ」
「そっか。磯谷くんが良いなら、それで良い」
得心した彼女が挙手する。
綺麗な肌、惜し気なく二の腕まで晒された腕に店内の視線が募った。さすがは魔性の女、無自覚であろうとも魅力の強さは店長に劣らない。
いけない、確認を取られる前に俺も決めなければ。
しかし、初めての来店とあって、どれがオススメなのか。
基本のラーメンで行くか。
やはり、味の偏りに委ねてみるか。
トッピングの如何に依るか。
メニュー表と格闘し、俺は漸く答えを絞り出す。
ちょうど、気付いた店長が厨房から身を乗り出した。
「は~い!そこのリトルカップル、ご注文をど・う・ぞ?」
「味噌ラーメンの大盛を。……ダーリンは?」
「……じゃあ、この『店長拘りの極玉ラーメン』を」
俺が注文する。
その声を聞いて――店内が静まり返った。
こちらに集中していた視線に異変が生じる。
綾辻に募らせた熱い眼差しが、どこか挑戦的で、好戦的な気配すら窺わせる獰猛な光へと変わる。
事態の空気すら全く察していない綾辻は、メニュー表を置いて、窓から見える向かい側の家を注視していた。
いや、それどころではない。
この綾辻以外の総員から送られる、異様な眼光は何なのか。
背後で含み笑いが聞こえた。
勢いよく振り返ると、そこではラーメンを啜っていた工事用作業服を着る壮年の男性が、油で艶づいた口元に不気味な笑みを浮かべる。
「兄ちゃん……初手でそれたぁ、やるね」
何だ……いったい、何が……!?
店長の方へと顔を巡らせると、凶悪な顔でこちらを睨みつつ笑っていた。自身の掌に拳を打ち付け、首の骨を鳴らす。
急に凛々しくなった。
「かわいいボウヤって思ったけど、ヤる時はヤるのねぇ。あたし、ちょっと本気だすわよ?」
「店長を舐めんなよ?油断してっと、テクが過ごすぎて虜になっちまうぜ」
え、ラーメンの話だよな?
俺は不安になって綾辻を見遣った。
「味噌ラーメン大盛、楽しみだね。磯谷くん、私たちは店内では一応恋人ってことで徹してみようよ」
綾辻は、異界の住人だった。
俺の身に迫る脅威、事の重大さを微塵たりとも把握していない。店内での振る舞いを変えて趣向を凝らそうとしたり、味噌ラーメンに想いを馳せたりしている。
まさか、初見で危険区域に踏み入ってしまったのか。
それは拙い。
暫くして、綾辻の味噌ラーメンが到着。
スープ全体の色合いや、柔らかそうなチャーシュー、麺の艶や臭いなども食欲を際限無くそそる危険な一品だった。
よもや、味噌ラーメンでこのクオリティ。
一口目を啜った彼女が満足げに頷く。
どうやら満悦の相、こんどは味を楽しめて何より。
さて――。
「お待たせ。『アタシ拘りのゴ――ックタンマ、ラーメン』よ」
発音が変わってて別のが来たと思った。
俺の目の前に置かれたのは、一見して普通のラーメン……ではない。
スープの表面に、左右で二つの孤島のように盛り上がった麺が見える。右はネギ、左はチャーシュー、その双方を見下ろすように奥では三枚の方形の海苔が立ち上がる。
スープは濃厚系の色合い。
臭いは味噌よりも若干弱かった。
く、明らかに違うな。
周囲の不敵な笑みなどに気圧されながら、まず右の孤島から箸で束ねた数本の麺を持ち上げる。外見から惑わせてくるかが、たぶん味も凄いのだろう。
そう――予断したのが愚かだった。
「なッ!?」
何と、持ち上げた麺に、スープの表面が貼り付いて持ち上がる。まるでスライムのようだった。
驚いて落としそうになり、堪えて深呼吸する。
おいおい、何だこれは。
スープというより、ソースなのではないか?
俺は再び持ち上げたそれを、口の中に運んだ。
「……凄い、あっさり……!?」
口内に入るやいなや、粘着性が失われてサラサラとスープが喉に流れていく。麺は自ら飛び込むかのように、いつの間にか啜って口の中に収まっていた。
ある程度は咀嚼して飲み込むと、うどんに似た喉ごし。
今度は左の孤島。
なんと、右とは違って粘着性がない!
しかし、口の中にいれると変貌する。
今度は、口内をゆっくり進軍するような粘りけを見せ、追い付いた麺と絡まって濃厚な味わいを作り出す。
「そんなバカな……左右で異色のラーメンを……!?」
普通は対極的なラーメンの性質を、贅沢にも一杯に集約していた。
どちらも楽しみたい人間には絶品、たとえ偏りがあろうとも驚き絶えず退屈させない逸品。
思わず席を立って店長を見ると、点火していないタバコを銜えて、こちらを向かずに立っていた。
「乙女は、誰しも二面性があるの。本能的に匿してしまう、女の顔。レシピは企業秘密よ」
俺は愕然として立ち尽くす。
こちらへと向き直った店長が、指で挟んだタバコの先を俺の方へと突き出した。
「男なら、その二面を満足させるくらいになりなさい!そして、残さず貪るのよ!!」
その言葉を受け、俺の体が自然と腰を下ろしていた。
そして手は意思が生まれるより先に、箸を手にして食事を再開する。
そこから先は――何も憶えていなかった。
次に意識が戻ると、俺は店の戸口に立っていた。
振り返ると、店長が手を振っている。
「もし、別の拉麺に飽きたら、またいらっしゃい。ここはアナタを、退屈になんてさせないわ」
唖然としながら、俺は退店した。
隣では、何やら膨れっ面の綾辻である。
訝って、そちらを見た。
「どうした?」
「せっかく恋人気分に興じてみようとしたのに、君はラーメンに夢中だからさ」
嬉しくない嫉妬だった。
相合い傘をしてバス停を目指す間も、俺は放心状態だった。
背後からは、変わらず店長の声が聞こえた……気がした。
『またいらっしゃい』
もしかすると、俺は――虜になってしまったのかもしれない……。
次回は物語が動く。