案外暇人?そうでもないのか。
大丈夫、修羅場ではないし、不吉なこともない。
「ナオくん」
誰かの声がする。
俺はいつの間にか眠っていたらしい。
黒板には計算式の羅列が並べられている。数Bの時間だったらしく、俺はその開始時の記憶すら無い。
突っ伏していた机から顔を上げると、下敷きになった現代文の教科書があった。
差し込む日差しは、夕方に近づく色を見せており、五時限の終了を体に伝える。
寝惚けてるな、何で寝てたんだっけ。
疲れているのかもしれない。綾辻の下らない話の与える不思議な効果で、ここ最近は不眠の授業態勢だった。
蓄積した物が許容量を超えて、とうとう倒れたのだろう。
「ナオくん、次は移動教室だぞ」
そうか、移動教室か。
そうなると、理科実験室に向かわねば。
「眠そうだね」
「ん、おう」
寝起きだった意識が、ゆっくりと機能し始める。
俺を呼ぶ声の主は、サイドテールの少女だった。円らな瞳が無邪気に俺の姿を映している。むしろ澄み渡っていて、俺の姿の所為で淀んでいると思えて罪悪感が湧く。
これが目で殺す、本物の英雄か……。
俺は曳斗から物理の教科書とノートを引っ張り出し、五時限で活躍しなかった筆箱を乗せて抱える。
授業開始前に俺を優しく起こしてくれた少女は、脇に自分用のそれらを抱えて並び歩く。
「随分なお眠さんだったけど」
「最近、疲れが溜まってたんだ。お前の友達のお蔭だな」
「マナちゃん、確かにナオくんに弾丸トークだもんね」
そう言って彼女――進藤心音が微笑んだ。
こいつは数少ない、というか綾辻や俺にとって唯一無二の女子友達。学年二位と称される美少女(真)、誰にでも馴れ馴れしいニックネームを付けることで有名。
初対面で『ナオくん』と呼ばれて、思わず心臓が跳ねた。
この距離感が判らない、いつの間にか懐を許してしまうことこそ、彼女の特性である。
進藤と二人で廊下を歩く。
そこでふと、違和感を抱いた。
やけに静かだ……。
「あれ……綾辻は?」
「早退したよ。具合が悪いんだって」
「ふふ、俺を下らない話にいつも巻き込んだ事が祟ったんだ。ざまぁ見ろ!!」
「ナオくん、悪人面が悪鬼面になったよ」
「ごめんなさい、お母さんのお腹の中から出直して来ます」
ちなみに、何気なく人の顔をディスる。
だからなのか、一部の女子には滅法嫌われており、マニアックな趣味の男子に好評。
綾辻は付き合いやすいと言っていたが、確かにクラスでは異端なのかもしれない。……俺は違うよ!?
そう、完璧な美少女などいない。
特に、こいつの欠点と言えば……――。
「なあ、進藤」
「なぁに?」
「なぜ腕を組んで歩く必要がある?」
「あったかいでしょ?」
「今夏なんだが」
誰彼構わずくっ付くっ付けところだ。
意図しているのか不明で、他の男子にも同様であり、むしろ女子に対してもこれだ。小さい頃からの癖らしく、俺が指摘しても改善されない。
これが女子から更なる嫌悪感を掻き立て、男子を勘違いさせた挙げ句に死地へと誘う。
女子の肢体とは、ただでさえ接触するだけで色香に頭がクラクラする。
女性視点からだと気持ち悪いと一蹴されるが、男なんて大抵そんなものだ。
加えて、進藤のモデル級にメリハリの付いた凶悪な体型が男を惑わせる。煩悩がわきすぎて、クラスから何人出家するか判らないレベルだ。
「頼む、離れてくれ」
「どうしようかな~?」
「わざとか?」
「そんなんじゃないよ。ナオくんだか――」
「進藤くん、何してるの?」
別の声がして、俺たちは振り向く。
廊下の後ろに、教科書を脇に抱えた綾辻が立っていた。髪を右肩に流しており、いつもと印象が違う。
いや、印象を変えている一因はそこだけではない。どこか、彼女が怒っているような……?
綾辻が歩み寄って来る。
俺の方には目もくれず、進藤の腕を摑んで先へと進んで行く。
「油断す……君は……だね」
「そうだね~……休……協……中……ね?」
遠ざかっていくので、何を話しているか判らない。
てか、綾辻って早退したんじゃなかったっけ?
***********
物理の授業を終え、遂に帰宅の時間がやってくる。理科実験室から戻り、帰り支度を済ませて鞄を担ぎ上げた。
教室の入り口へと進もうとして、誰かが扉の影に隠れているのを見つける。小さく縮こまっており、覗き込まなければ分からない。
直近まで寄って扉の後ろを見ると、そこにジャージ姿の阿久津美波がいた。
「おお、阿久津さん。どうした?」
「あ、えと……磯谷さん、実はさ……」
「んおう?」
何だか顔色が悪いな。
思わずオットセイみたいな声で返事してしまった。震えている彼女の様子からも、何やら尋常ではない事情、その深刻さが察せられる。
俺が彼女の次の言葉を待っていると、意を決した阿久津さんが顔を上げた。
「実は、相談したい事が――」
「あれ、磯谷くん。私を置いて何処へ行くんだい?」
「ナオく~ん」
阿久津さんの言葉を遮る形で、綾辻と進藤が声をかけてきた。
空気読めや。
揚々と近付いてくる綾辻。
進藤がまた馴れ馴れしく俺の腕を取る。
その時、阿久津さんの顔色がさらに悪くなった。顔から血の気が引いていく。扉から飛び退いて離れると、そのまま背を向けて走り出す。
何だろう、怖がってる?
明らかに進藤を見て反応変わったが。
「磯谷くん?」
「……進藤、阿久津さんと何かあった?」
「阿久津さん……たしか隣のクラスの、女子バスケットボール部の子?」
「知ってるのか」
「それだけ、なんだけど」
そんなに知り合いという関係ではなさそうだ。
あ、あれか。
綾辻や進藤に聞かれると拙い話なのかもしれない。些か様子が大袈裟な気もするが、今度個別で話を伺うことにしよう。
「あ、そうだ磯谷くん、進藤くん」
「あ?」
「よかったら、二人とも今日は私の家で晩御飯を食べないかい?」
「ごめん、私は用事あるから先帰るね」
進藤は俺たちから離れて、廊下を駆けていく。
取り残された俺達が訝しむ間もなく、階段へと姿を消してしまった。用事、あいつに用事とかあるのか。
一見して暇そうだが、もしかすると部活をやってるのかもしれない。
毎回、食事に誘うとあいつは用事があると断る。
「仕方ない、今晩は二人で食べよう」
「前もそれだったけどな」
次回へ続く。