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アサクラはとにかく走っていた。ビル街の隙間を。
肩幅ぴったしでホコリだらけのきたない路地だ。
当たり前だが、こんな道を全力疾走するなどありえない。
しかし、このいりくんだ道は「彼女」を守ってくれる。
「待ちなさいっ。」
後ろから追ってくるお巡りさんから。
少女は小さい身体でスルスルと走り抜けていく。
室外機から飛び降り、雨どいを昇り、塀を超え、石を投げる。
「んぐっ、んんん・・・。」
クリーンヒット、ナイススロー。
若干前屈みになりつつもガッツポーズ。
もはや彼女を引き止めるものは誰もいない。
無情にもそのまま走り去っていった。
「・・・んぬおおぉぉぉ・・・。」
股を抑えて踞る。
鈍い痛みがじわじわ広がっていくのが感じられた。
玉に石が当たったのだ。
男諸君が知っている通り、到底立つことなどできない。
とある研究によると玉の痛みはマッハで脳に響くらしい。パネェ。
かれこれ何年もこの職に従事してきたが、こんな屈辱ははじめてだ、と、彼は思う。
しばらくその場で丸まっていると後ろから壮年のおっさんが追いかけてきた。
蹲っている彼、タナカの上司であり、相棒とも言える存在のゲンさんである。
ひと昔前までは鍛え上げられた筋肉で多くの犯人を追いかけていたそうだが、老いには勝てないらしい、今では腹がでていた。
「大丈夫か、お前。」
「これが、大丈夫に、みえますか、ゲンさん。」
ゲンさんは憐れみの心で腰をさすってくれた。
ほっといてくれ。
「しかしなかなかすばしっこいな、あの嬢ちゃん。一向に捕まらん。」
段々と痛みが落ち着いてきたので、おさえながらも頭をあげる。
いまだヒリヒリしている股間に将来の息子の危機に心配しつつ、タナカはあの子のことを頭に思い浮かべた。
「たしか身元不明なんでしたっけ。あんな小さいのに。親御さん、心配だろうなぁ。」
「もしかしたら、その親から逃げ出したのかもしれないぞ。」
勝手な憶測が飛び交う。
彼女は先々週から出没するようになった女の子だ。
身元不明で住所不定。
河原の橋の下で魚を焼いていると思えば、次の日には公園で野宿していたりする。
神出鬼没と言っても過言ではない。
どうしてそんな生活を送っているのか、まったくの謎だ。
「ま、とりあえず、そのことは捕まえてからだな。」
そう、とりあえず後回し。
この話は肝心の本人がいないのならなんの意義も持たない。
「ははは、明後日の筋肉痛がこわいなぁ。」
「ご愁傷様です。」
愛すべき交番のお兄さん方は次こそ捕まえてやる、と息巻いた。
撒いた、撒いたぞ。
1人の女の子が乱れた息のまま、勝利の余韻に浸っていた。
彼女こそ、タナカとゲンさんに追われていた少女、アサクラである。
2週間、彼らと追いかけっこをしている彼女だが、一向に追跡を辞めない彼らをみて、焦りを感じていた。
そうか、きっと、なんかの組織みたいな奴らが俺を追っているんだ、と、厨二病みたいなことを考えているのである。
別に彼女が特別痛い子であるというわけではない。(客観的にみると痛いけど)
アサクラが女の子だからだ。
彼女はひと昔前まで男であった。
しかし一晩寝ると、いつの間にやら女の子になっていたのだ。
このような思考に陥っても、仕方がないことといえるだろう。
とりあえず、風呂はいって帰って飯食って寝よう。
その後を考えるのはその後だ。
逃げるように彼女はその場を後にしたのだった。
気が向いたら続く。