強すぎる癖
僕は、そこそこ広い一軒家に住んでいる。両親の住む実家からは既に独立しており、まだ結婚もしていない独身である。
にもかかわらず、一軒家を借りて生活している。古い木造の平屋であり、家賃は安い上に住み心地も悪くない。引っ越してきてから、もう三ヶ月になる。
「ひとり暮らしなのに、広い一軒家に住んで寂しくないか?」
知人からは、よくそんな風に言われる。だが、寂しいと思ったことはない。なぜなら、僕は大切な友だちと同居しているから。
うちには、猫が二匹いる。雄のジョニーと、雌のヴァネッサだ。どちらも雑種であり、子猫の時に知人からもらい受けたものである。まだ、一歳になるかならないかのはずだ。
雌のヴァネッサは、とてもおとなしく、のんびりとした性格だった。家の中をのそのそと歩き、気が向くと喉をゴロゴロ鳴らしながら僕にジャレついてくる。「ナアナアナア」と、僕に話しかけてくることもあった。何を言っているのかはもちろん分からないが、親愛の情は感じられる。そんな時、僕は笑いながら喉を撫でてあげるのだった。
ヴァネッサは人懐こく、本当に可愛い奴である。しかし、雄のジョニーは気の荒い性格だった。しょっちゅう外を出歩き、時には虫や小動物のような獲物を捕まえてくることもある。一度、死んだ蛇をくわえ、勝ち誇った表情で帰って来たこともあった。
その度に、僕が始末をしなくてはならなかった。困った奴である。
このジョニーだが、おかしな癖がある。普段、こいつは僕のことを無視していた。名前を呼んでも、ほとんどが知らん顔である。遊ぼうとして撫でても、迷惑そうにとことこ離れていく。ご飯をもらう時以外、ジョニーが自分から寄って来ることはない。
ところが、僕が部屋でストレッチや筋トレをしている時に限り、向こうからちょっかいを出してくるのだ。
座った状態での前屈なんかをしていると、ジョニーは離れた場所から、じっとこちらを見ている。「あいつ、またやってるよ」とでも言わんばかりの様子で。
僕はジョニーを無視し、長座前屈を続けていた。すると、ジョニーはとことこ近づいて来て、僕の背中に猫パンチを打ってくるのだ。「コラ、何してんだ」という感じで。
それでも無視してストレッチを続けていると、ジョニーの攻撃もだんだん激しくなってくる。しまいには僕の足を己の前足でがっちりロックし、猫キックの連打をくらわしてきたりするのだ。
仕方なくストレッチを中断し、構ってやろうとすると、すたこらと逃げてしまう。
また別の日のことだが、僕は腹筋運動をしていた。すると、またしてもジョニーがじっと見ているではないか。「またやってるな、こいつ」とでも言いたげな表情で、じっとこちらを見ているのだ。
そんなジョニーを無視し、腹筋を続ける。すると、ジョニーはつかつかと近寄って、今度は腹に猫パンチを食らわせてくるのだ。僕が上体を起こすタイミングに合わせ、ペチンと叩いてくる。「コラ、無視するな」とでも言いたげに。
かと思うと、日によってはゴロゴロ喉を鳴らしながら、頬を擦りつけてくることもある。「そんなのやめて、俺と遊ぼうよ」とでも言わんばかりに。
そんな時は、ちょっと戸惑ってしまう。普段は絶対にしない行動なのだが、なぜかストレッチや筋トレをしている時に限り近づいて来ていた。どうやらジョニーは「俺がお前を無視するのはいい。だが、お前が俺を無視するのは許さん」という思想の持ち主のようである。
こんなジョニーであるが、最近もうひとつ奇妙なことをやり始めた。週に一回か二回くらいの割合で、屋根裏の探検をするようになったのだ。
先ほども書いた通り、僕の家は古い木造の平屋である。押し入れの天井には、屋根裏に通じている入り口があった。もっとも、普段は板でふさがれており、猫が自力で入ることは出来ない。
ところが、ジョニーは気が向くと、天井裏に通じている押し入れの周囲をうろうろと徘徊し始めるのだ。
僕がその周辺を通ると、ジョニーは顔を上げ「ナア」と鳴く。分かってるだろ、とでも言いたげに。まあ、僕も何をすればいいかは分かっている。板を外して、ジョニーを屋根裏へと送り出してやるのだ。
すると、ジョニーは小一時間ほどガサゴソと屋根裏を探索し始める。探索、と書いたが……実際に何をしているのかは不明だった。
ともかく、ジョニーは「屋根裏に行かせろ」とばかりにナアナア鳴き、僕は屋根裏へと上げてやる。ジョニーは屋根裏を徘徊し、気が済むと降りて来る。こんなやり取りが、週に一度か二度くらいの割合で起きていたのだ。
ジョニーは、いったい何をしているのだろうか? 僕は気になり、一度だけ懐中電灯を手に屋根裏を覗いてみたことがある。中にネズミでもいるか、あるいは猫たちのトイレ代わりにされていたら悲劇だからだ。
しかし、中は綺麗なものであった。ホコリすら落ちていないのだ。ひょっとしたら、虫の類いはいたのかもしれない。だが、ネズミなどの害獣のいるような気配はなかった。まあ、奴らも僕なんかに見つかるほど愚かではないだろうが。
いずれにしても、ジョニーの屋根裏探索の目的が何なのか、当時の僕には分からなかった。
ところが、謎が解ける日が来てしまった。
その日は休日であり、僕は昼間に目を覚ました。あくびをしながら、周りを見回す。しかし、猫たちの姿は見えない。どうやら、外に遊びに行っているらしい。僕は起き上がると、顔を洗い歯を磨いた。
その時、ナアと鳴く声が聞こえた。猫が帰ってきたらしい。
玄関を見ると、猫専用の出入口からヴァネッサが入って来ていた。ヴァネッサは「ナア」と僕に挨拶をした後、とことこと歩いていく。
ヴァネッサは奥に進んで行くと、ある部屋で立ち止まり天井を見上げた。そして「ナア、ナア」と鳴き始めたのだ。親しい友人に語りかけるかのように。
思わず首を傾げた。ヴァネッサは人懐こい猫である。しかし、そこには何者もいない。こいつは、いったい何をしているのだろうか?
そっと近づいてみた。しかし、ヴァネッサは僕を完全に無視している。何もない空間に向かい、なおも「ナア、ナア」と鳴き続けているのだ。
ようやく気づいた。ヴァネッサは、そこに何かの存在を感じ取っている。それも、親しげに挨拶しなくてはならないような何者かの存在を──
背筋が寒くなり、僕は思わず後ずさっていた。確かに、そこには何かがいる。ヴァネッサは、その何かを見つめているのだ。
形容の出来ない感覚に襲われながら、天井を見上げた。その時、ある考えが頭に浮かぶ。
天井の板を外し、僕は屋根裏を覗きこむ。中は暗くて見えない。しかし、間違いなく何かがいる……。
手にした懐中電灯で、中を照らしてみた。
そこには、ひとりの女がいた。
殺したはずの、あの女が──
・・・
その女の名は恵。かつては、僕の彼女だった。
恵は天使のようにあどけなく美しい顔と、モデル顔負けのスタイルの持ち主である。僕は一目見た時から、彼女の魅力にまいっていた。
僕は、共通の友人を介して恵に近づいていく。恵はおとなしく引っ込み思案な性格であったが、そこも当時の僕にとっては魅力であった。
時間をかけながら、僕は恵との距離を少しずつ縮めていく。恵は、そのアプローチに初めは戸惑っているようだったが……徐々に、心を開くようになっていった。
やがて、僕と恵は付き合い始める。だが、当時の僕は何も分かっていなかったのだ。
恵の美しい顔にひそむ、恐るべき狂気に。
恵は、僕を束縛するようになった。常に行動を監視され、一時間ごとにスマホに連絡してくる。何をしているのか、いちいち聞いてくるのだ。
その返信が少しでも遅れると、彼女はブツブツ文句を言ってくる。遠回しだが責めるような言葉を、スマホを通じて浴びせかけてくるのだ。
だが、それくらいならまだ良かった。
やがて恵の存在は、僕の生活を侵食し始める。いや、それは侵食などという生易しいものではなかった。
ある日、恵は何の相談もなしに、僕の家に自分の荷物を運びこむ。そして、強引に住み着いてしまったのだ。
その時は、さすがの僕もキレた。なぜ相談もせず、こんなことをしたのかと怒鳴り付ける。すると恵は、しくしく泣きながら僕に言ったのだ。
「私のこと、愛してないの?」
愛してるとか愛してないとか、そういう問題ではないだろう。せめて一言、相談して然るべきではないのか。
この時、僕は理解したのだ。
恵はまともではない。
その後、僕は恵と何度も話し合った。無論、別れるための話し合いである。だが、この会話は平行線を辿るだけだった。僕は別れたいが、恵は別れたくない……しかも、恵は僕の言うことに耳を傾ける気配がないのだ。
「私はあなたを愛してる。なのに何故、別れなければならないの? あなたを失ったら、私は生きていけない……」
心の底から嫌になってきた。もう、彼女とはやっていけない。
ある日、恵が留守の間に、僕は夜逃げ同然に家を出た。もちろん、彼女に行き先は言っていない。ただただ、恵と縁を切りたかったのだ。
引っ越した時、僕はホッとした。恵は頭がおかしいのだ。あんな女とやっていくのは不可能だろう。
だが、僕は甘かった。
引っ越してから一月も経たぬうち、恵は僕の家を探し当てたのである。
あの時の恐怖は、今も忘れていない。仕事が終わり家に帰ったら、目の前に恵が立っていた時のことを──
「お帰りなさい。ご飯にする? お風呂にする? それとも……あたし?」
まるで新妻のように、エプロン姿で僕を出迎えた恵。本当に嬉しそうな表情であった。
だが、その瞳には狂気の光がある──
「お前、ここで何してんだよ……」
そう言うのがやっとだった。すぐに警察に電話すべきだったのだろうが、とっさに頭が回らなかったのだ。
しかし、恵は全く怯まない。微笑みながら言葉を返す。
「だって、あなたのいるところが私の家だもん。だから……来ちゃった」
言いながら、恵は舌をペろりと出す。その仕草を見た瞬間、僕の中で何かが弾けとんだ──
僕は無言のまま、恵を殴りつけた。女性を殴ったのは、この時が初めてである。いや、そもそも人を殴ったこと自体が初めてであった。
生まれて初めての、他人に対する暴力。だが、それは予想外の結果をもたらす。スマートな体型の恵は、僕のパンチを浴びて後ろに倒れた。
結果、テーブルの角に頭を打ち、死んでしまったのである。
幸いなことに、僕の実家は精肉工場を経営していた。父親らが動物を解体していく様を、幼い頃から見ている。
僕もまた、同じことをした。恵の死体を実家の工場に運びこみ、バラバラに切り刻んだのだ。骨は細かく砕き、肉を削ぎ落とす。皮膚や肉はビニールに詰め、海へと流した。常人なら吐いてしまうであろう作業だが、僕は淡々とこなした。人間の肉も動物の肉も、大して変わりはしない。
あとは、魚が全てを処理してくれる。
残酷だ、と思うだろうか? だが、僕にはそうする以外になかった。あんな狂った女のせいで、殺人犯として残りの人生を過ごさなくてはならない……そんなのは、絶対に御免だ。
死体さえ処理すれば、ただの行方不明である。警察に調べられたりはしない。
・・・
確かに、恵は死んだはずだった。心臓も止まっていたし、脈もなかった。
その上、体を切り刻みバラバラにして海に捨てたのだ。生きていられるはずがない。
なのに今、目の前に彼女がいる。その顔には、傷ひとつない。いつの間に盗んでいたのだろう……僕の服を着て、暗い屋根裏で照れくさそうに笑っている。
「もう、サプライズのつもりだったのにい。見つかっちゃったね」
恵は、そう言って上目遣いに僕を見つめた。てへっ、という声が似合いそうな表情を浮かべて。
その時、僕はようやく理解する。ジョニーは、屋根裏を探検していたのではなかった。
屋根裏に潜んでいた恵と、楽しく遊んでいたのだ。
翌日、僕は朝食を食べていた。
二匹の猫は、隣の部屋にいる。恵と一緒に、仲良く遊んでいるらしい。
ジョニーとヴァネッサは、恵の同居をあっさりと受け入れている。どう考えても、まともな人間ではないはずの恵を。いや、化け物以外の何者でもない恵を。
見る限りでは、二匹は僕より恵の方に懐いているようだった。もっとも、今さらどうでもいいことだが。
時間になり、僕はいつも通り出勤するため扉を開ける。
「行ってらしっしゃい」
恵の声がした。振り返ると、彼女はニコニコしながらこちらを見ている。
僕も、作り笑いを浮かべて手を振った。こうなった以上、もはや諦めるしかないのだ。今の恵が、化け物であるのは間違いない。殺した後にバラバラに解体したにもかかわらず、傷ひとつない状態で僕の前にいる。
そんな人知を超越した存在に対し、どんな手段で対抗すればいい?
彼女から逃れる方法はないのだ。
「ちょっと待って」
恵は、立ち止まっている僕にスッと近寄って来た。
「こらこら、ご飯粒ついてるぞ。もう、しょうがないんだからあ」
言いながら、僕の頬に唇をつける。
ふと、視線を感じた。さりげなく周りを見てみると、近所の奥さん連中が立ち話をしていた。クスクス笑いながら、僕と恵を見ている。
「や、やだあ……恥ずかしい」
恵は、ポッと頬を紅く染めた。他人から見れば、僕たちはバカップルに見えるのだろうか? それとも若き新婚さんだろうか?
いや、どうでもいいことだ。恵の強すぎる癖の前に、僕は為す術なく屈したことに代わりはない。
これから永遠に、恵と同居していくしかないのだから──