幼いハチミツレモン
高校二年生の娘は、私と違って小説を好んで読む。高校入学から半年だけ付き合っていた彼氏が読書好きで、娘も寄り添うように本を読むようになった。
些細な喧嘩で別れてしまったみたいだけれど、元々空想好きな性格に合ったのか本を読むことはやめなかった。読書を始めたきっかけがとても少女らしくて、そんな娘が愛おしい。
夕飯を終えて洗い物をしていると、二階の自室から娘がおりてきた。
「ねえお母さん。なんで小学生の時のわたしは、猫と仲良くなって、優しそうなおばあちゃんとか、変なあだ名のお姉さんとか、秘密基地に居るお姉さんと友達になってないんだろう」
突拍子もないことを言いながら降りてきた娘の手には、一冊の本が抱えられていた。
「なにそれ。また本の話?」
「そうだよ。今読んでるのは別のなんだけどね」
ふらふらとした足取りで降りてきた娘は、一冊の本を抱えている。
カウンターキッチンから、娘の姿を見る。少し前まで小学生だった名残はあるものの、眉が細すぎるほどに整えられていたり、服もいつしか自分で買ったものを着ていたり。
本当に瞬きをする間に成長したんだなと、ほんの少しだけ寂しくなるのと同時に、こんなにも可愛い娘を育てている自分が嬉しくなり、仕事からまだ帰らない旦那を抱きしめたくなった。
私が洗い物をしながら適当に眺めていたテレビの音量を小さくして、娘はソファにどかりと座った。
「ちょっと見てたのに」
「うそ。お母さんさっき出てた芸人のこと「あまり好きじゃない」ってこの前言ってた。どうせラジオ替わりに流してただけでしょ」
娘からの反論に、何も言い返せない。確かに、ただ無音が苦手なだけで流していたから、見ていないと言えば見ていない。
我が娘ながら、いつからこんなに小生意気になってしまったのだろうか。まあ、日ごろ甘やかしている私にも原因はあるのだろうけれど。
画面の向こうからの干渉が小さくなって、手元で流れる水の音が妙にはっきりと耳に入るようになった。
私は昔から、一つのことに集中するのが得意ではない。一つのことをしながら、いろいろな物事が頭の中を取り留めもなく流れていって、落ち着きがない。
大人になった今でもその癖は治らなくて、さっきまで流れていた落ち着きのないバラエティ番組のよう。今も、手元では洗い物をしながら、娘が読んでいる本が気になって仕方がなかった。
「今日はどんな本を読んでいるの」
「すごい好きな作家さんが居てね。その人、あまり恋愛ものとか書かないんだ。けど、最新刊が恋愛ものの長編で、気になってハードカバーで買っちゃった」
恥ずかしそうに笑う娘は、ソファーから振り返って開いたままの本の背表紙を見せてくる。濃い青色に星空と、黄色い半円が描かれている不思議な表紙だった。
「お小遣いの前借は、ないからね」
洗い物を終えた手を拭きながら、二つのコップにオレンジジュースを入れてテレビの前へと戻った。娘の前に一つおいてあげると、小さく「ありがとう」と言ってコップに入ったジュースを飲む。
「大丈夫だよ。今月はこれにしかお金使ってないから」
そういって、娘はテーブルに置いた表紙をトントンと愛でるように叩いた。その娘の手に導かれるように、私の視線は再び表紙へと持っていかれる。
筆者の名前を見て、私はオレンジジュースを誤って気管へと通してしまい、何度も咳をこぼした。
「ちょっと、何してるのお母さん」
「ごめん。ちょっとむせた」
おそらく私は、この筆者を知っている。筆名だけでなく、実名も。さらにはその人となりまで知っている。ただ一点、気になることがあった。
「その人、恋愛ものは書かないの?」
「え、うん。そうだね。そういうテーマのアンソロジーなんかで声が掛からない限りは書かないんじゃないかな」
自分の記憶とは異なる彼の一面を見た気がして、今更時間の経過を感じさせられた気分になった。
あれは、私がまだこの子と同じような青春時代を生きていたころ。私は、この筆者と恋人同士という関係で結ばれていた。
変なガチャポンがすごく好きで、でも出てきた景品にはそれほど執着を見せなかったり。
ある日突然「プレゼントあげる」なんて言ってガチャポンのカプセルを渡してきて、「ああ、ダブった景品かな」なんて思って開けたら、綺麗なハンカチに丁寧に包まれた指輪が出てきて「ほら、今日で一年だから」なんて言い出した。
顔を見たら、いたずらが成功したこどもみたいな顔で笑っていた。
そのころから、小説は書いていた。「ゲームで徹夜した」なんて言いながら目の下にクマを作って遅刻してきた日は、大抵前日の夜中に小説サイトに新しい話が上がっていた。
私は読んだことがなかったけれど、ネットではそれなりに人気があったらしい。
見栄っ張りで、頑固で、少し恥ずかしがり屋な人だった。とても子供で、時々とてもロマンチストだった。
私にだけ見せてくれるロマンチシズムが、愛おしくて仕方がなかった。
私が作ったオムライスのケチャップを頬につけながら、真剣な顔で小説を読んでいる横顔が好きだった。頬についたケチャップにキスをして、真剣な顔が幼く歪むのも好きだった。
クリスマスには、私が寝ている隙にこっそりプレゼントを置いてくれたり、何もないのにケーキを買ってきて「頑張ってるから」なんて言ってくれたり。そういう姿が好きだった。
恥ずかしがり屋のくせに、サプライズや甘い言葉がさらっと出てくる不思議な人だった。
だから、彼が恋愛小説を書かないことが不思議で仕方がなかった。
「どんな話?」
娘に問うと、すごく難しそうな顔をした。
「正直ね、あまり好きじゃない」
難しい論文に向かっているような表情で、眉を寄せる。こんな娘の表情は、初めて見る。
素直過ぎて好きか嫌いかだけで物事を判断してしまう子だから、批判的な意見は普段あまり口にしない。それだけ、小説というものが彼女の中で重要なものになっているのだろう。
私の知らない世界が、彼女の中で作られているのが少しだけ見えた気がした。
「普段はね、もっと人間らしい人間を書くというか、醜い部分がむしろ美しいみたいな文章を書くの。でも今回はね、あまりにも甘い。メインが高校生の話っていうのもあるかもしれないけどね。イメージさせられる情景が、色味が淡くてハイライトがかかってる気がする」
すごい。素直に娘を尊敬した。小説を読まない私にとって、そんな感性は無かった。おそらく、漫画しか読まない旦那にも無いだろう。自分の娘を尊敬して、尊敬できる娘に育っていることが誇らしい。こんなにも大人になっていたのか。
「ああでもね、この人らしい表現もあるというか、この人らしいキャラクターも居るんだよ。脇役なんだけどね。私はこのキャラクターが好き」
ページをぱらぱらとめくって、娘はあるページを読み上げた。
「僕は、満月より半月の方が好きだ」
読みかけの娘の声が、私の青春を再びよみがえらせる。それと同時に、彼が恋愛ものを書かない理由がなんとなくわかった。
彼が、別れ際に言っていた言葉を思い出す。「俺はわがままで自己中だから、恋愛とか向いてないんだよ」別れの原因は、価値観の相違だった。
そもそも趣味だって違ったのだ。
冬が好き。夏が好き。洋画派。邦画派。昼食は無くても良い。昼食もしっかり食べて楽しみたい。異性の友達がほとんどいない。異性の友達がほとんど。本を読むどころか書く。本は読まない。
すれ違いから生まれた亀裂を、修正できなかった。今になって、申し訳ないとおもうこともある。
けれど、若いころの恋愛なんて、そんなものだとも思う。可愛い嫉妬だったり、行き過ぎた押し付けだったり。私たちも、変わらない。
私は言った。「そういうの、やめた方がいいよ。向いてないとかさ」泣きながら、言ったと記憶している。思い出すだけで、少し恥ずかしい。
「自分に対しても人に対しても、理想や期待を高く持ちすぎてしまう。だから、醜いところに余計に目が行くのかもしれない」
小説を書きながら、彼はそんなことを漏らしていた。そして、「いつか綺麗な部分をフォーカスした話も書きたい」とも言っていた。
思い出される彼の顔は、いつも横顔だった。やめた方がいいと言われた彼は、私と目を合わせていても、どこか考えている風に見えた。
きっと彼は、「向いていない」を変えられなかったのだろう。もしくは、今もまだ変えている途中なのかもしれない。見栄っ張りで頑固だから、納得したのしか発表したくなかったのだろう。というのは、記憶を美化しすぎだろうか。
「知ってる。もう一人誰かに満たしてもらわないと完成しない人間に似てるから。でしょう」
私に話して聞かせた物語に、そんな言葉があった。もう十五年以上前なのに、どうして覚えていたのだろう。
娘はお化けを見るような眼で私を見た。
「お母さん、この本読んだの」
「ないしょ」
娘の瞳が、宝石を見た泥棒のように輝く。
「ないしょはこの際無視するから、お母さんもこの本、読んでないなら読みなよ! そして読書仲間になろう」
「お母さんは、愛する夫と愛する娘で頭がいっぱいだから、本を読んでる余裕はありません!」
逃げるように言って、自分の使ったコップを流しへと持って行く。少しだけ生まれた感傷は、水と一緒にシンクへと流れて消えた。おそらく、もう思い出すことはないだろう。
私は、夢だった幸せな家庭を手に入れた。彼は、夢だった作家になっていた。昔の知人が、夢を叶えていた。それだけで、十分じゃないか。
それに私、満月の方が好きだし。窓の外に見える満月を見て、そう思った。
玄関の開く音と同時に「ただいまー」と聞きなれた音色が耳に入ってくる。帰ってきた愛する旦那は、今日の夕飯を食べたときどんな顔を見せてくれるだろうか。