未完の秘術
【前回までのあらすじ】
裏切りの妖・栲猪の恐るべき強さを前に、やむを得ず共同戦線を張る樹希と我捨。
しかし必殺の雷術の直撃も、宝具【火鼠の皮衣】によって阻まれてしまう。
この状況を覆すには、我捨が持つという切り札に賭けるしかない。釈然としない思いを抱きつつも、樹希は栲猪を追って罠の待つビルの谷間を行く。
何としても栲猪にダメージを与え、我捨の待つ地上に叩き落とさなければならないのだから――――!
――――漆黒の翼がはためき、冷気を帯び始めた昼下がりの空気を切り裂いていく。
「……我捨の奴、『あいつを地面に落とせば後は何とかする』って」
今や一面の暗雲に覆われた空の下。わたし……四方院樹希は土蜘蛛の将・栲猪を追い、立ち並ぶ灰色のビルの間をゆっくりと羽ばたき進んでいた。
「まったく、簡単に言ってくれるわ……普通に一撃当てるだけでも一苦労だってのに!」
速度を上げ追いつきたいのは山々だが、そう簡単にはいかない。先ほどから奴が逃げる先――――ビルとビルとの間に、幾本もの細い粘着性の糸がランダムに張り巡らされているためだ。
恐らくは今のこの状況を予測し、事前に仕掛けて置いたものなのだろう……栲猪はその間を器用にすり抜けて進んでいく。
それも糸を避けているという動きの違和感を一切感じさせずに、である。こちらとギリギリつかず離れずの距離を保っているのも、わたしが糸に引っ掛かった際いつでも逆襲に転じられる様にだ。
追いかけているつもりが、逆にじわじわと追い詰められている。暗澹たる思いに苛まれながらも、わたしは往くしかない。
時間稼ぎを続ける栲猪を倒さない限り、窮地にさらされているだろう灯夜たちの元へは向かえないのだから……!
『どうなされるおつもりですか、お嬢様。糸を搔い潜り追いついたとして、雷術ではあの【火鼠の皮衣】を抜くのは難しいでしょう』
……そう。雷華の言う通り、四方院の誇る攻撃雷術の大半は栲猪のまとう宝具【火鼠の皮衣】によって無力化されてしまう。
唯一、衝撃特化の鳴雷ならば皮衣越しにダメージを与えることも可能だろうが……半減した威力で奴を墜落にまで追い込めるかは、正直怪しい。
『かと言って通常の打撃では論外。あの速さの相手に空中で連撃を当てるのは無理がありますし、何よりあの受けの技を使われては打つ手無しです』
先程、我捨の攻撃をはね返した回し受け。あれがまた厄介だ。必殺を狙う重い一撃ほど、容易に反応され受け流されるのは必至だろう。
「……まさに完全無欠ね。術も打撃も効かないんじゃ、倒しようがないわ」
恐るべし、土蜘蛛の将……考えれば考えるほどに、こちらの手札の頼りなさを思い知らされる。
『先刻我捨の指摘した通り、栲猪には【黒ノ呪獄】も有効とは言えません。可能性があるとすれば、“王虎”と鳴雷の合わせ技。しかしこれも……』
「“虎鶫”の黒翼と“王虎”を切り替える隙を、奴が見逃すとは思えないわね。良くて相打ち……いえ、それにすら届かない」
手持ちのカードを組み合わせて打てる手は、これが限界。『人生は配られたカードで勝負するしかない』という言葉があるが、そんな運命に粛々《しゅくしゅく》と従えるほどわたしは出来た人間ではない。
「となれば…次のカードを引くだけの話よ!」
新しい手札を、引き加える――――それはすなわち、今までにない戦術を即興で実戦投入することだ。
『お嬢様、まさか!』
「……使うわ。“黒雷”を」
――――四方院家に伝わる雷術、【ハ雷】。それは雷そのものを忠実に模した拆雷と、他七種の特化雷術からなる総称である。
衝撃特化の鳴雷をはじめ、閃光特化の若雷、電磁場特化の土雷等の術があるが、その中で“黒雷”は降雷による帯電現象に特化した雷術とされていた。
他七種の雷術と異なり、黒雷が対象とするのは術者の肉体そのもの。全身の神経に限界まで大電流を流すことで、身体能力及びその反応速度を爆発的に向上させる事ができるのだ。
「黒雷の身体強化があれば、わたしでも栲猪の反応を超えるスピードが出せるわ。それなら例の回し受けも使えないはずよ」
『ですが、あの術は……』
雷華の思念が言いよどむ。想像した通りの反応だ……彼女の言いたい事も分かっている。
「ええ。わたしはまだ黒雷を完全に会得できていない。使いこなせるとはお世辞にも言えないレベルよ……そんな事、このわたしが一番よく分かっているわ」
身体強化と一言に言っても、実際にはそう簡単な話ではない。仮に今脚力が数倍になったとして、それで数倍速く走れるのか――――答えはノーだ。突然増大した力に感覚がついてゆけず、数歩と持たずに転倒するのがオチである。
身近な物で例えるなら、最新のスマートフォンをガラケーのチップに制御させるようなもの。体がいくら強化されたところで、それをコントロールするのは生身の精神である以上……爆発的に向上したスペックに対応するのは容易い事ではないのだ。
これこそが、黒雷が【ハ雷】最高難度の術と呼ばれた所以でもある。並みの術者では術の発動によって増加した身体能力に振り回され、まともに動くことさえままならないだろう。
四方院の長い歴史の中でも、この術を真に使いこなした者は両手の指の数にも満たない。黒雷とは……そういう術なのだ。
「だからこそ、今まで黒雷を使うシチュエーションは想定に入れてこなかった。あれを使っていられるのは数挙動がいいところ……そこから先は制御不能なのだから。姉様のように、何でも器用にとはいかないものね」
『お嬢様……』
わたしは、きつく唇を嚙み締めた――――けれど、今はそれに賭けるしかない。先代の巫女ほどの才に恵まれていないわたしでも、わずか数挙動の間ならあの高みに近づける。あの閃光のようにまぶしく、そして遠い背中へと……
「必要なのはただ一撃。今はその後の事を考えている時じゃないわ。妖のための御膳立てに全力なんて、正直癪に障るのだけど……」
黒雷での攻撃の後、わたしはしばらく無防備な状態に陥るだろう。あの我捨の前でそんな姿をさらすのは危険と言えなくも……いや、充分危険ではあるのだが。
「しくじって嗤われるわけには……いかないものねっ!」
そうと決めれば、ためらう必要はない。わたしは黒翼で風を切り、一気に栲猪との距離を詰めにかかった。
……速度が上がれば当然、今まで余裕を持って見切れていた糸に引っ掛かるリスクも上がる。それでも二本、三本とかわしてぐんぐんと彼我の差を縮め……あと少しで白いマントの裾に触れようという時。
「しまった!」
そう上手く事は運ばないと言わんばかりに、現れた横糸が黒翼を捕らえた。わたしの体は栲猪に届く寸前で見る間に減速し、強靭な糸の張力で反対方向に引き戻される。
引っ張られるままにビルの谷間を往復するうち、さらに数本の糸を巻き込んで……わたしはあっという間に黒翼をまとった蓑虫のような体で空中に固定されてしまった。
「……矢張り痺れを切らしたな。兎角、若人は生き急ぐものよ!」
それを待っていたように栲猪が反転し、ぶら下がる糸を切り替えつつこちらに迫る。
「来たわね、やはり……」
――――けれど、待ち構えていたのはこちらも同じ。
「雷華!」
『了!』
瞬時にして、わたしを縛っていた糸の感覚が消えた。獣身通・虎鶫が解除され、黒翼が消失したためだ――――糸の罠に引っ掛かったのは、元より栲猪をこちらの間合いにおびき出す為。
わたしはその為あえて、黒翼にくるまる様にして糸を受けた……糸が翼にだけ張り付くように、細心の注意を払って。
「ほう、なら次はどう出る!」
しかし、縛めの罠が破られても栲猪は動じない。糸からは逃れても、空中での移動手段を手放したわたしが恰好の的である事に変わりはないからだ。
片足を突き出し、わたしを射抜かんと矢のごとく突っ込んで来る。
――――それもまた、狙い通りよ!
「四方院の雷術を……舐めるなッ! 疾走れ“若雷”!」
薄暗いコンクリートジャングルが、まばゆいばかりの電光に満たされる。閃光特化雷術“若雷”――――いかに【火鼠の皮衣】と言えど、この光までは無効化できまい。
「むっ!」
しかし流石は古強者。光が炸裂する刹那、わたしは咄嗟に眼を覆う栲猪の姿を捉えていた。
『それでも、充分な隙は作れましたね』
そう。わたしの狙いはただの目くらましではない。威力は微弱ながらも、広い範囲に影響を及ぼすのが若雷の特徴。そしてその微力でも……
「何っ、我の糸が!」
……細い蜘蛛糸を焼き切るのに、不足はないのだ。
「直接攻撃だけが……雷術じゃないって事よ!」
自らを支えていた糸を失い、落ちていく栲猪。とは言え、このままおとなしく墜落してくれるような相手ではない。おそらくは数秒とかけずに態勢を立て直し、また糸を放って難を逃れるだろう。
――――ここから先は、新たなカードの引き次第。
わたしは体をよじって近くのビルの壁に取り付くと、肺の奥までひやりとした空気を満たしてから……唱える。
未だ完成に至らぬ、その術の祝詞を。
「四方院の名に於いて……宿導れ、“黒雷”!」
長らくお待たせいたしましたっ! 本当に長く……( つД`)
次話はGW中にがんばって更新するので許してっ!




