確かな気持ちと見えない絆5
「わかりました」
滝椿はおもむろに立ち上があると、前へと歩き出した。休憩所から離れて日差しの下を歩いて行く。
「本当は話し合いで納得してくれれば、と思っていました。それが無理だと、今になってようやくわかりました。残念です」
数歩ほど先を歩き、滝椿は振り返った。
「本当は、保健室で託真君の顔を見た時に気付いてはいたんです」
滝椿は困ったような顔で笑みを浮かべた。
「穏やかな顔をしていました。これまでずっと苦しそうな顔をしていたのに、穂乃香さんを見つめている時の託真君は、なんというか……幸せそうでした」
そして、上着のポケットから黒く、細長い何かを取り出した。それが太めのカッターだと気付いたのは、カチカチと音を鳴らして出てくる〝刃〟を目にした時だった。光に反射する銀色の刃は遠目からでも厚さがあった。殺風景な屋上と刃物の組み合わせに嫌な予感が膨らんでいく中、滝椿は半分ほど刃を出すとおもむろに手首に当てた。
「僕は本気です。託真君が諦めると言わなければ、ここで手首を切ります」
その言葉が脅しではないと言うように、滝椿は手に力を込めた。刃はぐっと手首に埋まり、軽く引いただけで小さく赤い血が刃からにじみ出てきた。座っても居られない状況に、飛び上がるようにして立ち上がる。
「なんで、そこまでするんだよ」
流石に狼狽えた。この話し合いに決着はつかないかもとは思っていたが、それでも話し合いで終わる思っていた。俺は、今の今まで滝椿の覚悟を侮っていた。
「あなたを止める為です」
有無を言わさない、真剣な眼差しが俺に向けられていた。
「だからって、自分を傷つけることないだろ」
「もし、託真君をこのカッターで刺すと脅しても、あなたは臆さないでしょう。むしろ刺された方が良いとさえ考える。あなたは自分が痛みを負うことに慣れている。でも、僕のように、ある程度親しくなった人が傷つくのは見ていられない。そういう性格をしているんです」
反射的に体が前に動くと、滝椿はそれよりも早くカッターを引いた。刃が皮膚を刺し、痛みに顔を歪めると同時に血は水滴となって手首を流れた。警告のようだった。
「こうして刃を当てているだけでも痛いんですね」
顔を引きつらせながら滝椿は数歩後退した。
「新品なだけあって切れ味もいいみたいです。よかったです、思った通りになってくれて」
「頼むから、手を離してくれないか」
見ているだけで俺まで痛むような感覚があった。吐き気すら感じるほどの気持ち悪くなり、見ていられなくて懇願すると、滝椿は冷静な眼差しを向けた。
「こうなっている原因はわかりますよね?」
「……俺が諦めるって言わないと、お前は手を離さないのか?」
「はい」
滝椿の返事に迷いはなかった。
「俺と穂乃香に何かあっても、お前に害があるわけじゃないだろ?」
「あります。夕貴君に佐藤さん。他にも悲しむ人がいます。なりよりも、僕が嫌なんです。これは僕の我儘ですけど、この我儘が正しいと思っているからこうしているんです。僕は本気だと言いました。あなたを止められるなら、力の限りにこの手首を切っても構わないと思っています。カッターの刃でどれほど切れるのかは試したことがないのでわかりませんが、動脈ぐらいは切れるでしょう。そうなれば今の比ではありません。最悪の場合、失血死もあり得ることです」
「馬鹿な真似はよせって」
「それは僕のセリフです。託真君がやめるべきであり、そうすれば僕はこの手を下ろします。効果的なのは託真君の顔を見ていてわかります。僕も痛い思いをした甲斐があったというものです。よかったですよ」
「よくねえだろ。何も」
「いいえ。これで託真君の決意を揺るがせられるなら意味はあります」
話ながらも考えていた。滝椿との距離はおおよそ六、七歩といった程度。駆ければ三秒も掛からない距離。手が届く距離まで接近すればカッターを持っている手を取るか、刃を直接握れば最悪の事態は避けられる。だが、少しでも動こうとすれば刃は今よりも深く沈んでいく。
傷が大きくなる前に止められば最良だが、滝椿は本気だと言った。その言葉がどの程度のモノかは今はまだ判断できない。迂闊な行動をとれば、どうなるか予想すらつかない。
ズボンのポケットにスマホがある。滝椿に気付かれず、校内にいる誰かに連絡が取れればこの状況も変わるかもしれない。しかし、僅かでも不審な行動が目に付けば、滝椿は怪しむだろう。一度でも警戒されれば、その後の行動は制限される。そもそも、目の前に立つ滝椿の気を逸らす手段が思いつかない。今はその方法を考えるべき――。
「いくら考えても僕の方が早いですよ」
俺の考えを読んでいるかのように滝椿は言った。ますます気を逸らすことが困難となった。
手首を切りつける際、滝椿の行動に躊躇いは無かったように見えた。無論、脅しの役割が大きいのだろうが、それだけじゃないことは目の前で証明されている。止める手段もなく、説得も出来そうにない。互いに譲れないモノがある。しかし、突き通すだけの覚悟が俺にはなく、脅しが効果的過ぎる。停滞し、切迫している状況下にも関わらず、目の前の滝椿がだんだんとぼやけて見える。




