日常9
長い長い交渉の結果、いったんの休戦となり、いつものように肩を並べて歩いていく。その帰り道の途中、そろそろ食料を買いに行きたいと穂乃香が言い、帰宅コースから少し逸れ、近くにあるスーパーへと寄ることになった。
我が桜井家の行きつけの食料品店は、全国展開している大型スーパーではなく、小さいながらも開放的であり全体的に清潔感のある個人店である。手狭でありながらも必要な物が一通り揃っているので不便はなく、何度も通っているので何処に何があるか把握している。
昔から知っている店なので品質にも問題はない。不満があるとすれば、日用品など一ヶ所で済ませられないのが難点ではあった。時間に余裕のある休みの日や大きな買い物をする時は大型店も利用している。一カ月に一度あるかないかの頻度ではあるが。
もう数刻で夕方から夜になるであろうこの時間帯は、買い物帰りの主婦らしき女性の姿がよく視界に入る。幼稚園のお迎えを終えた様子の親子連れ。同年代の友達とお喋りしながら歩く婦人。汚れた仕事着のまま店内に入る男性。もっとも混み合う時間ではあるが、穂乃香は躊躇いなく押し開きのドアを開けて店に入りそれに続けば、その先はげんなりする光景が広がっている。
通路が人で埋め尽くされている。ただでさえ狭い店内。譲り合いながら進まなければいけない状況で、穂乃香は迷う素振りなくすいすいと人と人の合間を縫うようにして進んて行く。付いていくのもなかなかに大変なのはいつものことだった。
穂乃香の買い物の仕方はあらかじめ買う食材を決め、それら全てを暗記しているのでメモなどは一切持たない。片手が塞がるのが不便だから。メモに視線を落として足を止めれば、後ろの人に迷惑が掛かることを配慮しているのかもしれない。こまめに通っているので、それほど書き留める物がないのもメモを使わない理由の一つだろう。
穂乃香は食材を手にとり、より良い品を見定め、次々と籠に入れていく。何を買うのかを知らない俺は、ただその後ろ姿を眺めながらショッピングカートを押して穂乃香についていく。いつもと逆の立場になる。
後ろなど一切気にしなく、ぐいぐいと進んでいく後姿を眺めていると、普段からこのくらい堂々としてくれるといいのだけど、と思う。野菜、魚、肉、調味料、とぐるりと店内を巡り、最後お米売場へ向かっていた。その途中、カップラーメンが置かれている棚の前を通り過ぎる。前方を歩く穂乃香に気付かれないよう素早く棚へ向うと、カップラーメンを手に取り籠の奥へとしのばせた。
何故、こそこそと買い物をしなければならないのか。それを説明するにはまず、我が桜井家の規則を話さなければならない。主に、お金は穂乃香が握っている。欲しいものがあれば願いしてお金をもらわなくてはならない。
天使のような妹は笑顔で大抵の物は買ってくれる。財布の中身が寂しくなれば、いつの間にか一定額が入っている。けれど、カップラーメンは身体に悪い毒だと言いはり、絶対に買ってくれない。特別カップラーメンが大好きというわけではないが、たまには食べたくなることもある。
お米売場へ着いてそっと穂乃香の様子をうかがってみたが、今のところ気づかれてはいないようだった。六種類ある米をそれぞれ眺めてから、穂乃香の視線は結局いつも場所で止まる。それにするのか、とカートを穂乃香に預け、指定されたお米を持ち上げた。
「重くない?」
心配そうに穂乃香が訊く。軽くはないが、たかだか十キロの物。長時間持ち続けなければたいしたこと無いだろう。ふと、穂乃香の非力な腕でこれは持てるのだろうか、と些細な疑問が浮かんだ。
「ちょっと持ってみな」
穂乃香の承諾を貰う前にお米を眼前に差し出せば、突発的な行動に慣れてしまっている穂乃香は慌てながらもすでに受け入れ態勢だった。そこまではよかったが、始める前から、ああ、これは無理だな、と予測がついた。ショベルカーの様に両腕で抱くように持つ姿勢はなんとも持ち辛そうで、軽く力を抜くだけで微かに腕が震えていた。この細腕では十キロは持てそうになく、早々に判断し米を受け取った。
「いつも、こんな重い物持ってくれていたんだね」
重い物は基本的に俺の担当なので、十キロの重さを穂乃香は知らなかったのだろう。もともと持てるとは思ってはいなかったし、穂乃香ぐらいの女の子であればこれくらいの力しかないのだろう。雪花ならぎりぎり持てそうな気もするが。そのまま米を俺が持ち、後ろで穂乃香がカートを押す。
「それにしても、穂乃香は本当にこの米好きだよな」
米なんてどれも同じだと思っているのであまり気にしたことはなかったが、よくよく考えてみれば、いつも同じブランドの米を買っている。お気に入りなのか、と思っていたが、どうもそうではないらしい。
「託が好きなんだよ」
忘れちゃっての? と笑う穂乃香。
「そうだったか?」
「そうだよ」
米の違いなんて俺にはわからない。でも、穂乃香が言うならそうなのだろう。けれども確か、穂乃香が美味しいって言ったから買うようになったような気もするが、昔のことだから記憶も曖昧になる。並列されている三つのレジの内、一番空いている列に並ぶ。
「そうだ、そろそろ牛乳がなくなりそうだったぞ」
会計が始まる直前に、まるで今思い出したかのように自然な流れで俺は一芝居うった。
「そうだっけ? うん。わかった」
記憶と違っているのか、財布を俺に預けると渋々といった感じで売場へと向かって行った。牛乳など無くても問題はないが、このまま会計が進めば密かにしのばせている物が露見してしまう愚を避けるために、この場から離れてもらう口実を作った。穂乃香が戻ってきてしまう前に急いで買い物袋に詰める作業を始めるのだった。