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ふれられないもの  作者: 柳
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決断ゆえに6

 

 体力の続く限り走り続けた。何も考えたくなかった。脳裏に浮かんでくる穂乃香の泣き顔や寂し辛そうな声から離れようとした。


 限界を感じて足を止めた。息を切らし、しばらくは肺に空気を入れる動作を繰り返した。ようやく落ち着いた頃、周りの景色を見た。あれだけ必死に走ったのに、目に見えるのはどれも見たことのある物ばかりだった。知っている場所だった。


 結局のところ、俺は何処へも逃げられないのだと知って笑みが零れた。ここから先へは進めそうにない。引き返す気力も体力もなく、人気のない道の端に腰を下ろし壁に背を預けて座った。


 今は穂乃香に会いたくない。合わせる顔がない。そう思っていても心の片隅では、このまま穂乃香を一人にはしたくない気持ちがあった。相反している想いが胸の中にあった。


 矛盾ばかりだった。この気持ちだって間違いだと言いながらも、無かったことにしたくないと思っている。見ない振りをするのが精いっぱいで、忘れる努力を俺は何一つとしてしていない。それでも、穂乃香には間違いだと言わなければならなかった。


 これでいいのだろうかと思う。このままではよくないのだとも思う。正しいとか、間違っているとか、そんな単純な二択では割り切れそうにもない。


 顔を上げて夜空を見上げれば、雲の切れ目に月と星があった。あの丘で見た景色には到底及ばない夜空をしばらく見ていた。


 考えはまとまらない。それでも、俺は帰らないといけない。俺の家は、穂乃香のいる家なのだから。ただほんの少しだけ、立ち上がれる力が湧いてくるまでの間、ここにいることにした。


 ――――。


 自宅までの道を歩いて帰れば日付が変わっていた。玄関に鍵は掛かっていなかった。いつでも俺が帰ってこられるようにしておいてくれたのだろう。音をたてないよう気を付けながら静かにドアを開けて家に入った。


 足音を立てないよう慎重に廊下を歩くと、リビングに明かりがついていた。自分の部屋に戻る前にリビングへ立ち寄り、電気を消そうとスイッチに手を掛ければ、テーブルで両腕に顔を埋めて座っている穂乃香が見えた。隣で寄り添うように体を丸めたクロもいた。


(眠っているのだろうか?)


 顔は見えないが、微かに呼吸している動きだけがここからでも確認できた。音もない寂しいリビングで、一人で眠っている穂乃香を見ていると複雑な想いが胸を往来した。小さい背中は俺を不安にさせる。


(俺が傍にいなくてもやっていけるだろうか?)


(変な男に絡まれたりしないだろうか?)


(少しは人見知りが治るだろうか?)


 心配は尽きない。穂乃香から視線を少し横に向けると、ラップが掛けられた二人分の夕食が用意してあった。


(俺を待っていたのだろうか?)


 せっかく作ってくれたのに、今は食欲がない。


(そう言ったら穂乃香はどんな顔するだろうか)


(きっと怒るだろうな)


 作った苦労と手間にではなく、俺の健康を気遣って怒ってくれる。そんな穂乃香を宥める為に俺は渋々頷いて、食欲もなく席について静かに食べ始めるのだろう。それでも残してしまうかもしれない。


 穂乃香は少しだけ残念そうな顔をしつつも無理強いはしなくて、後片付けをし始めて、それを俺は申し訳なく思いながら見つめている。


 それから風呂に入って、少し寛いだ後に勉強が始まって……睡魔と戦いながら時間が経って……。


 決して特別ではなくて、当たり前だった穏やかな日々を、今では妄想することでしか実現できない。もう手の届かないだと改めて自覚して気分が滅入っていれば、微かに穂乃香が動いたのが目に入った。そっと顔がこちらを向き、俺の存在に気付くと慌てて顔を起こした。


「……お帰りなさい」


 慌てて椅子から立ち上がり、穂乃香は迷うことなく俺の元へと足を向けた。逃げるように家を飛び出した手前、どんな顔をすればいいのかわかれなくて、俺は足元に視線を落とした。


「さっきの、話なんだけど――」


 遠慮がちに、話の核にふれないように言った言葉は、とても言いにくそうで、それを俺がそうさせているのだと思うだけで申し訳ない気持ちにさせられた。


「私は……それでも、一緒に――」

「ごめん、また今度にしてくれないか。もう寝る、から」


 続きを聞きたくなくて適当ないい訳を作った。本来であれば、穂乃香が納得してくれるまで話し合わなければいけなかった。話の続きを穂乃香が望んでくれているのであれば受け入れるべきだった。にも関わらず、情けなくも俺は、捨てるべき自身の感情を優先していた。


 穂乃香の言葉を塞ぐように駆け足で階段を上り、自分の部屋に入って鍵を掛けた。それでも尚、背を向けた俺に向けて穂乃香が何かを言っていたが、それも俺は無視した。


 ベッドに身を投げ、寝てしまえば何も考えなくて済むと目を瞑った。そうやって逃げて、逃げて、何もかもから逃げたかったのに、精神的にも体力的にも疲れているのに、眠気は一向にやってこなかった。目を瞑って耳を塞いでも、暗闇の中で穂乃香の顔が浮かんでくる。


 眠りたいのに眠れない。一時でも忘れたいのに忘れられない。これじゃあ、悪夢よりよっぽど酷い。ただゆっくりと時間だけが過ぎていった。


 気が付けば日が昇り始めた。時計に目を向ければ六時十五分になるところだった。結局一睡も出来なくて、努力しても今は無理なんだと諦めてベットから起き上がった。


 制服に着替え、穂乃香と顔を合わせるのが怖くて通学用のカバンを手に取り家を出た。


 登校時間まで通学路から少し外れた公園のベンチに座って時間を潰した。いつもより早めに学校へ着いて、誰もいない静かな教室で自分の席に座り、窓の外をぼんやりと見続けた。


 しばらくすれば徐々に生徒の姿が見え始める。窓から見下ろすと、登校中の生徒が地面を這う蟻のように見えた。距離的に顔の認識は出来なく、男女の区別は制服でしか判断できなかった。なのに、同じ方向を目指す集団の中に穂乃香の存在だけが周りから浮くように映った。見たくないのに視線は穂乃香を追い続けた。


 どんな表情をしているのかなんてここからでは見えない。遠くから歩いている姿を眺めているだけでその人の心情を察せるはずもないのに、視線の先にいる姿と、昨日の涙ぐむ穂乃香の顔が重なっていく。


 二人の為だと、離れるべきなんだと言った俺の言葉はきっと、今も穂乃香を傷つけているのだと思う。その事実をまざまざと見せられ平気でいられるわけがない。


 胸が裂けそうになって、居ても立っても居られなくて、今すぐにでも教室から飛び出して、穂乃香のところに行きたい衝動が俺を立ち上がらせた。


 それがどれほど間違っているのか、そう想うこと自体が間違っていると嫌と言うほど知っているはずなのに、それでも穂乃香の傍に居たい気持ちが確かにあった。


 全てを無駄にする一歩が踏み出されそうになる瞬間に、穂乃香のすぐ隣を歩く生徒の存在に気が付いた。雪花かと思ったが、男子の制服を着ているところを見れば夕貴か滝椿だろうことは予測が付く。穂乃香を守ってくれる人が傍にいれば俺が行く必要はない。すっと身体中の力が抜けると倒れるように椅子に座った。


「託。どうした?」


 いつから居たのか、目の前に夕貴がいた。誰もいないと思っていた教室には半数以上の生徒がいて、あちらこちらから談笑している声が聞こえてくる。


「どうもしないよ」


 そう返して、もう見えなくなった穂乃香の姿を未練がましく探すように窓の外に視線を向けた。


「そう?」

「ああ、何でもない」

「そんなことないよ? 明らかに元気ないじゃん。何かあった?」


 その台詞は昨日も聞いたような気がする。夕貴が俺を心配して言ってくれているのは伝わってくる。余計な詮索をされてくなくて言葉だけは適当なことを言っている。自分でも気持ちが沈んでいるとわかっているのに、誤魔化すことしか出来ない。


「夕貴に頼みがあるんだ」

「なに?」

「穂乃香が独りでいる時、困ったことがあった時、傍に居て手を貸してあげて欲しい」


 夕貴にもいずれ話そうと思っていた。俺が穂乃香の傍から離れれば、それを機に近付いてくる人は必ずいる。その人たちの全てが穂乃香に対し悪意があるとは思っていない。好意から近付いているだけで害する気持ちなどほんの少しもないかもしれない。でも、それを知るすべを俺らは持ち合わせていないし、その人も証明できない。だから、ある程度距離を空ける必要がある。


 その人と穂乃香の間に誰かが居れば、瞬間的な衝突は避けられる。雪花と滝椿と、信頼を置ける数少ない友人である夕貴に、穂乃香を守ってくれる一人となってほしいと。こんな曖昧なことを告げられれば雪花のように問い詰められるかもしれないのに、今は身勝手なことばかりが口を出る。夕貴は、どう思うのだろう。


「それはいいけど、託はどうするの?」

「どうもしないよ。ただ、今までみたく穂乃香の傍に居られないから、夕貴に頼みたいんだ」

「託が今までやってきたことをすればいいってこと?」

「そう、なるかな。出来る範囲でいいんだ。もちろん無理強いはしない」


夕貴は少し考えるように間を置いた。


「それはさ、今託がしていることに関係あるんだよね。託が穂乃香ちゃんから距離を置いていることと」


 どう答えればいいか少し迷った。こっちがお願いしている立場でありながら、詳細は話せない。話したくないから、俺は曖昧に小さく頷いていた。また、雪花に話した時のような気まずい空気になるんじゃないかと、次に出る夕貴の言葉が少しだけ怖かった。


「託が決めたことに僕は口を挟まないよ」


 質問も、疑問も、憤りもない夕貴の言葉と声を聞いた瞬間ほっとした。でも、夕貴なりに穂乃香に対する俺の態度に思うところはあるらしい。それでも口を挟まないでいてくれるのは有難かった。だから、夕貴が何を思っているのかは問わない。


「でも、託のことも心配なんだ。だから、話したくなったらいつでも言ってね」


 夕貴は俺の肩を優しく叩いて自分の席に戻っていった。

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