修学旅行とそれぞれの想い15
相当量の酒を飲んだのか、もともと弱い体質なのは知らないが、それほど力を加えずとも押せばそのまま倒れてしまいそうに思える。素面の時でさえ脅威に感じたことは一度もないが、今の谷村はそこらの女子でも倒せそうなほど弱く見える。
「問題でも起こして辞めさせられるのか」
絶好の好機であっても動けなかった。脅しの可能性がゼロにならない限り、手は出せない。
「優秀な俺が、問題なんて起こすわけないだろ? 仕方なく、異動しなきゃなんねえんだよ。だからその前に、思い残すことはなくして、気持ちよく新しい学校で働くんだよ」
谷村の言葉に確証はなく、酔っぱらいの出鱈目かもしれないのに、嬉しさのあまりに歓喜の声を上げそうになった。
「この、修学旅行が終われば、俺は、この学校から居なくなる。どうだ? 嬉しいだろ?」
「ああ、嬉しいね。嬉しくて涙が出てきそうだ」
「じゃあさあ、最後に、俺の頼みを聞いてくれよ」
酔いが徐々に回ってきているのか、甘えた声になっている。中年の、それも嫌いな教師の猫なで声は聞くに堪えない。ぶん殴って黙らせたかったが、今だけは谷村の言うとおりにしてもいい気分だった。
「もう一度言う。忘れるな。俺に指一本ふれてみろ。後悔するのは、お前だ」
念を押すように忠告すると、谷村は一歩こちらに踏み出した。ゆらりゆらり、と無防備な身体を揺らしながらも、ぎらついた目だけは俺を捉えて離さなかった。谷村の足は眼前になっても止まらなく、ぶつかるように体を当て、もたれ掛かるように抱き着いてきた。後ろへ倒れないように支えれば、重い体は高熱を発していた。荒い息からは濃い酒の匂いがした。
「お前の大切な妹は、さぞ、いい声で泣くだろうな」
耳元で囁かれ息が止まる。谷村はだいぶ酔ってはいるが、その性質までは変わっていない。守るべき立場の教師が生徒を脅しの材料にしていることこそ、十分にこいつがいかれている証明であり、犯罪すれすれの発言も谷村だからこそ十分に現実味のあるものだと思えてしまう。こいつは人間の屑で、そういうことを平気で出来るほど性根が腐っている。
「好きにしろ」
抱き合ったまま、俺はそう告げた。これが最後だという根拠は谷村の信用ならない言質だけだが、みんなを盾にとられては打つ手がない。守るにも限度がある。それに、俺は決めたばかりじゃないか。穂乃香から離れるのだと。
その障害となる芽が目の前にあるのなら、喜んで受け入れよう。それが、今の俺に出来ることなのだと思えば理不尽だなとは思わない。
これから起こるであろう暴力を覚悟しながら徐々に身体の力を緩め、完全に無防備になった瞬間、耳元で、ふっと笑う声が聞こえた。だらんと垂れていた手が俺の首元に伸び、襟元を掴むと、足払いと同時に外へ引っ張られた。
無抵抗の体が宙に投げ出されると世界が回転し、次の瞬間にはコンクリートに叩きつけられた。固いコンクリートは容赦なく骨を叩き、一拍遅れて打ち付けた左側面に鈍い痛みを感じた。それでもまだ、痛む箇所を冷静に考えていられるのは、体が覚えていたらしい受け身を咄嗟にとったおかげだった。
「早く立てよ」
谷村は俺を見下しながら待っている。野蛮な教師だとは思っていたが、谷村が柔道経験者だとは知らなかった。酔っているはずなのに技の切れは鋭く、谷村か俺のどちらかに不備があれば、最悪頭を打ち付けていた。そうならなかったのは幸運だったが、軽症で済めばこの一方的な暴力は終わらない。
言われるがまま立ち上がると、狙いすました大振りの拳が顔面に当たる。腰の入った大振りは重い衝撃を生み、首から頭が吹っ飛ばされる感覚があった直後、一瞬意識が途切れ膝から崩れ落ちた。
「立てよ」
冷たく響く声。その声に応えるように意識が浮かび上がる。手と足に力を込め、必死に立ち上がるとすれば足が震えた。時間を掛けて立ち上がるのを静かに見届けた谷村は、一拍の間もなく、抉るような拳が的確に鳩尾を捉えていた。
短い唸り声と共に肺に入っていた酸素がすべて吐き出され、息ができなくなり、苦しみと痛みに体が前のめりになる。谷村は攻撃の手を止めない。倒れかけの身体を片手で持ち上げると、ボールを蹴るような格好で顔面を蹴りあげた。
目の前が暗闇に閉ざされた。気付くとコンクリートが目と鼻の先にあった。いつ倒れたか憶えていない。
「次だ」
谷村はゆっくりと近づいてくる。体を動かそうとすれば足に力が入らなく、立つことすらできなくなっていた。何時切ったのか、口の中は血の味がした。意識もはっきりしない。ただ、殴られ蹴られた場所だけが熱を持っていた。
「もう終わりかよ。骨がねえなあ」
そう言いながら何度も横腹に蹴を入れる。微睡んでいた意識を痛みで呼び起こす。何度も何度も――。
「まだまだ。こんなんじゃ気が済まん」
蹴るのを中断した谷村は背を向けると、柱の影に置いてあったバックから細長い棒状の物を取り出した。上半身よりも長い、先端に丸っこい塊を付けた何かがわかったのは、目の前で素振りをし始めた時だった。何が可笑しいのか、掲げるゴルフクラブを恍惚とした表情で見つめながら笑っていた。
「最近始めてさあ。うまくいかないから、ずっと練習したかったんだよ」
耳元で風を切る音が鮮明に聞こえた。
「……体育教師のくせに、運動神経な、いんじゃないのか?」
逆らうつもりも怒らせるつもりもなかったが、つい思ってことが口に出ていた。谷村は僅かに戸惑うような表情をしていた。
「まだ生意気な口が利けるのか。その度胸は認めてやるが、いいのか? そんな態度じゃあ何時までも終わらないぞ」
「終わらせるつもり、ないだろ」
「まあ、そうなんだけどな。ただなあ、俺も鬼じゃあない。泣き叫べば許してやらなくもないぞ。よく考えろ。たった一度だけだ。ごめんなさいっと言えばこれで終わりにしてやる」
悪魔の囁きとは、きっとこのことなのだろう。ぼんやりとした思考の中、谷村の提案に乗った自分を想像してみた。が、出来なかった。自分が助かりたいがために自分を捨てるなんて考えられなくて、それが馬鹿馬鹿しくておかしくなった。
「……それなら、死んだほうがましだな」
そう答えると、谷村は口を歪めてふっと噴出した。そして腹を抱えて笑い出した。徐々に大きくなる笑い声は駐車場に響き渡り、しばらく止まなかった。
「ああ、お前は、そう言うだろうと思ってたよ。くそつまらねえことばかり言いやがる。ほんと、つまらねえ人間だよ」
谷村は頭の位置を確認すると大きく振りかぶる。そっと目を閉じた。目の前が真っ暗になると、顔面に向かって、ゴルフクラブを振り下ろされる音が聞こえた。
――――
足を引きづるようにして旅館に戻った。
一歩進むたび、身体を動かそうとすると激痛が駆け巡った。スマホを取り出す。連絡が何件もあった。もう、就寝時間は過ぎている。
帰らないと――。




