修学旅行とそれぞれの想い2
昼休みに顔を見せた穂乃香に怯えていた時の面影はなかった。そのことに安堵し、そして、それだけ雪花の存在が大きいのだと改めて自覚させられた。
植え付けられた恐怖心は、抑えようとしても隠しきれるものではない。俺が浜田に対し、抑えようのない感情があるように、同じ校舎で、いつ顔を合わせるのかわからないような環境下で、会いたくもない人と過ごすのは怖いだろう。
腕力では敵わなく、道理を無視した相手を前にして、助けてくれる人が傍に居ない状況だった場合、自分を守る手段はあまりない。それを自覚していれば尚更だ。今度はどんな強硬手段をとるのかわからな相手だからこそ、恐怖を覚える。
朝の様子を見た限り、もう少し引きずるのかと思っていが、そうでもないらしい。すぐ近くに安心する人がいてくれていることがどれだけ助かるのか、それは俺自身もよく知っている。それが俺ではなくても、穂乃香は平気になりつつある。そうなってくれればいい、と望んでいたことではあったが、僅かばかりの寂しさがあるのは仕方ない。いつまでも、このままの関係が続けばいいと思う。
少し離れた所では、夕貴と滝椿が天体についての話で盛り上がっていた。お泊り会では出来なかった話をしているのだろう。楽しそうな二人を邪魔したくなくて、雪花たちの会話に耳を傾けていたものの、やっぱり夕貴たちの話に混じればよかったと後悔することになる。
「託さんだって、穂乃香ちゃんに起こしてもらってるじゃない」
発端は些細な会話だった。お泊り会はどうだったんだ? と俺が発したことで始まり、何をして過ごしたのかを聞かせてもらっていた。
もちろん、帰宅した穂乃香におおまかな話は聞かせてもらったけど、詳しい話は改めて二人の時に聞くつもりだった。終始楽しかったのは穂乃香の顔を見ればわかる。トラウマが呼び起こされることはなかったことも聞かせてもらった。楽しそうに話す二人を見ていると、あの時に踏み込んでよかったと心から思えた。
問題となったのがその後の話。お泊り会で穂乃香が一番印象的だった雪花と母親のやり取りについて話している時のことだった。雪花と母親は、まるで姉妹のような気さくな関係で、言いたいことははっきりと言えるほど仲が良く、穂乃香が雪花の家にお邪魔して最初の二時間ほどは、母親を含め三人で色々な話をしていたらしい。そのことを穂乃香は俺に伝えたかったのだろうけれど、ある言葉が引っかかった。
「お前、いつもそうやって親に起こされてるのか?」
雪花は朝に弱い。そのことは前から知っていたが、穂乃香の話しを聞くと毎度のことであったらしく、時には掛布団ごとベットから引きはがされて起こされているらしい。それも、酷いときは三度も繰り返す、と。
「あれは、お母さんが大げさに言ってるだけ。いつもはもっと、ちゃんとしてるんだから」
いつも夕貴の世話を焼いている人がまさか、起きたくないと親の手を煩わせているとは思うまい。欠点がない人などいないのだから、そんな一面があってもおかしくはない。ただ、必死に誤魔化そうとしている雪花はなんとも子供のような可愛らしさがある。
「だって、目覚まし掛けても、聞こえないんだから、仕方ないじゃない」
拗ねた声色で抗議する雪花に、穂乃香は慌てて、ごめんね、と謝っていた。耳まで赤くした雪花があまりにも可哀想に思え、余計なことは言わないようよう注意しながら玉子焼きを頬張る。
「確かに、起きられない日もあるよな。仕方ないよ」
気持ちはわかるよ、と同意したつもりで言えば、雪花は恨めしそうに俺を見ていた。別に気にしなくてもいいことだとは思うのだけど、本人にしたら恥ずかしいことなのかもしれない。穂乃香の不注意で露見してしまった雪花のだらしのない一面。悪気はないとわかっているからこそ責めることも出来ない。もう知ってしまったのだから手遅れだよ、と俺は呑気に雪花が吹っ切れるのを待っていた。
「そう言えば、託さんに訊きたいことがあるんだけど」
しばらくして、ぽつりと雪花が呟く。今度は何を言い出すのかと温かい気持ちで続きを待った。
「一緒にお風呂、入ったんだって?」
その言葉が耳に届いた瞬間、思い浮かんだ言葉は、最悪だ、という一言だった。穂乃香が話したのだろうことは簡単に想像出来る。けど、それを口に出すのは卑怯だろう。俺の所為ではなく、穂乃香の責任にも出来ないから、自分と同じような恥ずかしさをぶつけてきた。
「顔、真っ赤」
雪花に指摘されるまでもなく、鏡を見る必要すらない。顔が熱くなっているのを自覚する。隠しきれない感情を自覚してまた、恥ずかしくなる。穂乃香は顔を伏せていた。
「その話は内緒って、言ったのに……」
穂乃香のささやかな抗議の言葉は雪花に届くことはなく、届いていたとしても、この流れが止まるとは思えなかった。
無益な争いからは何も生まれない。言い訳の言葉は浮かばなく、誤魔化しの嘘も思いつかない。抵抗すれば墓穴を掘りそうで、この話は流すのが賢明だと思えた。
そう思った時、屋上の扉が開く音がした。
「すみませーん」
普段から屋上を使用する生徒は俺たち以外にはいない。やってくる人も珍しい。聞き慣れない声のした方に視線を向けると、知らない女子が立っていた。
「桜井託真くんいますか?」
面識はないはずだが俺を呼んでいるらしく、箸を持った手を軽く挙げてここにいる、と示した。と、見知らぬ女子と視線が重なり、真っ直ぐに俺のところに歩み寄った。
「ちょっと来てくれますか?」
言うが早いか、俺の返事も待たずに手を掴んできた。
「いきなりなんだよ」
なんだこいつは、と心の中で毒づき、迷惑だと視線に込めたのだが、この女は怯むことはなく、
「少しだけだから」
と言い、こちらの同意もなく、強引に腕を掴まれたまま屋上を出る。背丈は雪花ぐらいだろうか。肩までのびた茶色の髪が揺れると、柑橘系の匂いがした。
そのまま引っ張られること数分。何か魂胆があるのなら一人の方が丁度いいと思い、渋々従っていたのだが、流石に面倒になってきた。何処に向かっているかは知らないが、これ以上付いていく義理はない。捕まれた手を強引に離す。
「用件はなんだよ」
もう少しだから、と言いながら再び手を握ろうとしてきたので、一歩後ろへ下がって掴まれない距離を保つ。
「話があるならここでしろ」
そう言うと、この女はあからさまに不機嫌な表情になった。しばらくの間、意味のない睨め合いを続け、根負けした女は諦めたように手を引っ込めた。はあ、と息を吐き、黙ったまま注意深く辺りを覗っていた。
「本当は体育館裏に行きたかったけど、ここでいい」
教室からは少し離れた廊下の真ん中で向かい合う。遠くから生徒の声は聞こえてくるが近くにはいない。話をするのなら丁度いい。
「正直に話して」
そう前置きして女は俺を見つめる。




