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ふれられないもの  作者: 柳
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天体観測から見える景色10

 

 手を伸ばせば伸ばすほど、それが錯覚だと実感する。そうそうに見切りをつけ視線を巡らせれば、小屋の中で背を向けて座っている夕貴を見つけた。


 しんと静まった場所で、身じろぎもなく夜空を見上げている後姿は、まるで一枚の絵を見ているような感覚があった。


 綺麗な夜空と視界に広がる風景を兼ね備えた絵は確かに綺麗だった。ただ、それらの綺麗な風景も、何とも言えない寂しそうな夕貴の背中でより際立っているだけの付属品の装飾のようでもあった。


「いい場所だな」


 後ろから声を掛けて反対側に座る。


「この場所が一番気に入っている」


 夕貴はこちらを向くことなく、ただ夜空に浮かぶ月を見つめていた。その横顔は落ち着いたもので、興奮も感嘆もない、妙な静けさだけがあった。


 夕貴が見つめる夜空へ視線を向けた。雲の少ない、いい天気だった。


 不満があるとすれば、満月に近い月の自己表現が激しく、周辺の星の輝きが幾らか弱く感じる。いままで夜空といえば月と星があり、月が輝いていれば素直に綺麗だと思っていたが、星を中心として見た場合、強すぎる月の光は邪魔になるのだと知った。それでも、本格的に観測しているわけでない俺は、どちらにしても綺麗な夜空には違いなかった。


 出発前の、ざっと読んだ星座の本に載っていた星は、目の前の空に有りそうで何一つとして見つけられない。夕貴に訊けば教えてくれるだろうけど、静かに眺めている夕貴の邪魔をしたくなくて、そのまま無言で夜空を眺め続けた。


 静かな夜。場所も光景も違うのに、穂乃香と行ったあの丘の夜空が自然と脳裏に浮かんでくる。


 あの時の夜空も綺麗だった。ただ、それよりも印象的で派手な花火の存在で印象としては弱くなっている。あの日は夜空を見せたかったのではなく、穂乃香の望みであった花火を見せたくて強引に連れて行ったのだから当然とも言える。


 携帯を取り出す。時刻は二十一時を過ぎていた。着信歴はない。離れていても、ふとした瞬間に穂乃香のことを考えていた。どうしても頭を切り替えられなくて、今も目の前の夜空を眺めているようであの日の夜空を見つめいた。


 父さんが言っていた〝大切な人と来なさい〟という言葉が喉元に引っかかった小骨のようにいつまでもそこにある。あの言葉はきっと、俺と穂乃香それぞれの想い人とあの丘へ行き、その人との思い出の場所にしなさい、という意味だったのだろう。


 俺にとって大切な人とは穂乃香であり、それは家族愛でもありながら一人の異性としての想いがある。父さんの思惑とは違ってしまったかもしれない。けど、確かな気持ちは昔から少しも揺るがない。


 ただ、穂乃香はどうだったのだろうか、と思う瞬間がある。いつか、遠い未来。近い未来。俺ではない他の男とあの丘に行くことがあるのだろうかと。そんなことを考えて、どうしようもない気持ちが体の内側に溜まって苦しくなる。考えても意味はないのに、また考えている。


「何も訊かないんだね」


 不意に夕貴が口を開いた。正面を向いたまま、いつもの緊張感のない声だった。


「何のことだ?」

「うちのこと。姉さんに会ったんだよね」


 なんと返せばいいのか迷い、言葉に詰まる。玄関で会ったあの女性が、夕貴の親族である可能性を考えなかったわけじゃない。ただ、何かしら心身に問題を抱えてそうに見えて、尋ねことを躊躇っていた。知らないままでいいと思っていたのに、夕貴の方から告げられてしまった。


「うちの親、仕事が忙しいって言ったよね」


 夕貴が言う。


「一年に一度しか帰って来れないくらい忙しいんだっけ?」

「そう。そう言った。でもね、そんな仕事あると思う?」


 またも返しにくいことを告げられる。夕貴の親がどんな仕事に就いているのか。聞かされた時に少しばかり考えて、そのままにしておいた。


 思い浮かばなかった。一年中忙しい仕事が本当にあるのかと疑問に思った。そしてとても単純な、邪推とも言える憶測はすぐに浮かんできた。


 夕貴は気にしないかもしれないが、それは一般的には失礼な答えだった。もし当たっていたとしても、本人を目の前に言えるわけもない。


「託ならもうわかってるよね」


 同意を求められても、俺は頷くことが出来ない。頷いたところで、当たってほしくない憶測が変わることはない。


「忙しい仕事はあると思うんだ。共働きでも、時間を忘れるくらいの遣り甲斐のある仕事って」


 淡々と語るその声はいつのも夕貴の声なのに、まるで感情が伝わってこない。夕貴が何を考えているのかがまったく伝わらなくて、どう言えばいいのか迷って何も言えなくなる。


「僕の両親は違う。忙しくても暇でも、家に帰ってこないんだ。帰りたくないんだ」


 帰りたくない、そう言った夕貴の言葉で思い浮かんだのは、時が止まったような静かな夕貴の家の風景だった。存在感の無い家族。必要最低限しかない家具。両親の私物の少なさ。


 半日も過ごしていないが、それでも妙だと思える瞬間が幾つもあった。それらの要素も夕貴が言っていたように両親の仕事が忙しくて、家に居られないからだと思っていた。


 それもあって、それだけではなかったということ。


「研究者をしていたんだ。重要な実験チームに抜擢されて外国の研究機関に招待された。危険な実験になるって言われたけど両親は喜んで受けたんだって」


 決して重くなく、けれど軽くもない抑揚のない声は、ただある事実を口にしているようだった。


「海外だし、帰国するだけでも時間と手間とお金が掛かる。でも、それは問題じゃないんだ」


 ようやく漏らした感情は溜息交じりだった。


「不倫してる。二人とも」


 静かに呟いたその言葉は、テレビドラマや小説やニュース番組ではそれほど珍しくもない。連日のように見聞きする類の言葉ではないにしろ、その言葉の意味が軽くなる程度には耳にしている。


 浮気や不倫。不誠実な関係を持ったことのある大人が、はたしてどの程度いるのかは俺は知らないし、そして誰にもわからないだろう。ただ、夕貴の両親は互いを裏切る行いをしていて、それを夕貴は知っている。


 ただ、それだけのこと。俺は、夕貴の両親を知らない。顔も性格も背丈も、何もかもを知らない。


「勘違いの可能性はないのか? 何かの間違いとか、偶然そう見えたってだけで……。会社の人とか、知人だったとか。そういうことはないのか?」

「電話でね、名乗ってきたよ。父親の愛人らしき女性が〝今すぐ別れてくれ〟って。知り合いを名乗る人が〝奥さん、浮気してますよ〟って。訊いてもいないのに教えてくれた。何度も、何度も……聞きたくない話を無理やり」

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