父さんと母さん9
艶のある髪も、すらっとした頬のラインも、整った鼻の形も、やわらかそうな唇も、白く肌も。透き通った瞳に映る花火も――。
「そうだな。すごく綺麗だ」
呟いた俺の気持ちは、いとも簡単に花火の音にかき消されてしまった。次の花火が夜空に上がる。とても綺麗で、いつまでも見続けていたいのに、いつの間にか足元へと視線を逸らしていた。
穂乃香を驚かせて、喜ばせて、満足していたはずなのに、心中を占めているのは負の感情だった。過去の記憶にふれて、少しばかり感傷的になっているのかもしれない。
隣にいる人が、次の瞬間に消えてしまうのではないか、という根拠のない不安が脳裏を過った。すぐ傍にいて、手を伸ばせばふれられるのに、どうしてそう思ったのか自分でもわからない。ただ、胸に押し寄せてくる漠然とした不安な気持ちがいつまでも消えてくれなかった。
このままではいけない、と一度目をつむる。せっかく穂乃香を喜ばせる為に連れてきたのに、俺が不自然に気落ちしていては全てが無駄になる。そう思って顔を上げた時、繋いでいた手がそっと離れた。どうしたのだろう、と思った次の瞬間には、指と指を絡ませるように繋ぎ直されていた。
手を繋ぐだけで頬を赤く染めていた穂乃香が、こんな大胆な行動を起こすなんて考えられなかった。心の準備もなく、唐突で予想外の穂乃香の行動に、今まで感じていた不安さえも一瞬で消えるほどに戸惑った。
横目で穂乃香を見た。まっすぐ前を向いている表情に、特別な変化は見受けられなかった。この行為にどのような意味が含まれているのだろうか。そもそも意味なんてないのだろうか。
わからないことだらけでも、密着した手の平から伝わる温もりは、先程までの寒さを忘れさせてくれる。この手を離したくないと思ってしまった。今だけ――この花火が打ち上げ終わるまでは、と考えることを放棄して、穂乃香の手を受け入れて、その時がやってくるまで丘の上で夜空を眺め続けた。
より親密な手の繋ぎ方。その行動にどんな意味を持つのか、俺はその時にちゃんと考えるべきだったのかもしれない。
予め覚悟はしていたものの、本格的に夜となった山道を下る行為は、今後からは慎んだ方がいいということが良くわかった。先を照らす携帯のライトはなんとも弱々しく、足元の感覚と、時折注がれる月明かりだけが頼りとなった帰り道は危険と隣り合わせだった。
躓かないよう、迷わないように注意していても、何か一つでも間違えれば遭難にもなりかねない。そういう状況にいると頭ではわかっているのに、不思議と危機意識は薄かった。花火を見て気分が高揚としているからなのか、傍に穂乃香がいるからなのか、そのどちらなのか、どちらでもないのか。
絡めた手を離すきっかけは今もなく、そのままになっている。離したいわけじゃないが、小さな問いが、このままでいいのかと言い続けている。無視は出来ないが耳を塞ぎたくなる。
「あの場所、いつから知っていたの?」
何事もなく山道を下り終え、お寺の石段に差し掛かった時、穂乃香が尋ねてきた。
「父さんに連れて行ってもらったんだ。俺が小学生の時に」
だいぶ昔のことのはずなのに、当時の記憶は今も鮮明に残っている。先を歩く父さんの大きな背中と、ぐいぐいと力強く引っ張ってくれて大きな手を。
「あの丘は、父さんが母さんにプロポーズした場所なんだって」
穂乃香が小さく驚き声をあげた。その予想通りの反応に少しだけ笑って、そうなんだよ、と言い話を続ける。
「その時はまだプロポーズて言葉がよくわかってなかったんだけど、あの丘は、父さんにとって大切な場所なんだって漠然とだけど理解してた。だから、あの場所には簡単に来ちゃいけないだって思ってたんだ」
「そうだったんだ」
その後も、話の中心は父さんと母さんの話題になった。穂乃香が知らないであろう話を俺がして、俺が知らない話を穂乃香が話した。話題は尽きなかったが、ふっと会話が途切れる瞬間が訪れる。
二人分の足音だけが耳に響いていく。少し前から穂乃香は何やら思案するように俯いていた。どうしたのだろうか、と思いながらもしばらく歩き続ければ、ふと穂乃香が俺を見て、訊いてもいい? と問う。
「なんだ?」
「どうしてわかったの?」
穂乃香が言った言葉はあまりにも曖昧で、どのことを指しているのかを当てるクイズのようだった。解答者は一人。難解そうな問題に思えるが、穂乃香のことであれば自然と答えが見えている。
「わかるよ」
俺はそう答えた。穂乃香が言いたくても言えなかったこと。本当はお祭りに行きたくて、花火を見たがっていたこと。穂乃香がわかりやすいわけではないが、わからなくもない。
「そっか」
暗くて穂乃香がどんな表情をしているのかはわからなかったが、なんとなく嬉しそうな声が心地良く耳に届いた。
父さんの話にはまだ続きがあった。帰り際に父さんが俺に告げた言葉。それは穂乃香に伝えなかった。
「いつか、託真にも自分よりも大切な人ができたら、その人とこの場所にくるといい」
父さんの言葉に、俺の頭に浮かんだ人の名前を挙げた。
「もちろん家族も大切だ。だけど信じられないことに、託真がもっと大きくなればもっと大切な人が出来るんだよ」
「そうなの? 大きくならないとダメなの?」
「いずれ父さんの言いたいことがわかる時がくる。だから焦ることない」
幼かった俺は、父さんが伝えたかった事がわかっていたのか、わかっていないのか、その答えさえわからなかった。大きくなった今、あの場所に再び訪れた。間違ってはいないはず。穂乃香は大切な人だ。もちろん、父さんが本当に伝えたかったこととは少しだけずれているのは自覚している。
でも、仕方ないよ。誰よりも大切になった人が妹だったのだから。
帰りのバスに乗っても手は繋がったままだった。今のこの時間を失いたくなくて、俺はほんの少しだけ握った手に力を込めた。気づかないほど軽く握れば、穂乃香も同じぐらいの力で握り返してくれた。繋いだ手は家に着くまで離れることはなかった。




