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ふれられないもの  作者: 柳
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父さんと母さん7

 

 強く握った手が震えた。不安しかなかった。父さんが死んだと言われて、わけわかんなくなっているのに、次は母さんが死ぬのだと本人から告げられて――。縋る物はなにもなく、希望も失って、ただ暗闇に落ちていくような感覚だけがあった。


 頼もしくて優しい父さんは傍にいない。凛々しくて厳しい母さんはベットに横になっている。穂乃香は今にも倒れてしまいそうな顔をしていて、支えのなくなった俺はもう、いつもの俺ではいられない。不安で不安で、怖くてたまらないのに、それでも頭が考えることを止めてくれない。


 そっと、頬に温かい何かがふれた。それが何であるかは目を開けなくてもわかっていた。落ち込んだ時、悲しい時、我慢してる時。母さんはいつもそうやって、自分ではどうすることも出来ない気持ちを忘れさせてくれた。大好きなその手に、自分の手を重ねて顔を上げた。


「母さんの……最後のお願い、きいてくれる?」


 こんな時でも母さんは微笑んでいた。いつもと変わらぬ笑顔で、これから死を迎えるようには見えなかった。


「穂乃香を……守ってあげて。あの子は、託真みたいに……強くない……から、少し心配なの」


 苦しそうな声で必死に言葉を吐き出していく。もう喋らなくていい、と言いたかった。そんなこと言わずにもう少し頑張ってよ、って言いたかった。伝えたい言葉は沢山あった。でも、言えなかった。認めたくなかった。


 母さんの願いに応えてしまえば、認めてしまえばもう会えないような気がした。それは絶対に嫌だった。でも、俺は――。


「今までも守ってきたんだ。これからもそうするに決まってるよ」


 言いたい言葉をぐっと我慢して、言いたくない言葉を吐き出した。上手に言えたのかはわからないけど、母さんは嬉しそうに笑ってくれた。


「そう、だったね」


 呼吸をするのも辛そうだった。今の母さんは会話するのも大きな負担になるのだろう。母さんの手を握り締め、何処にもいかないように繋ぎ止めようとした。弱々しく握り返されれば、母さんがまだ生きていると実感させてくれた。母さんは一呼吸すると天井を見上げた。


「あなた達は、私の自慢の子供。これからは二人……で……助け合うの」

「うん」

「託真、は……人の気持や痛みが、わかるから……無理をしてる時が、あるから……少しだけ心配、かな。時には辛いって……言っていいの」

「うん」


 母さんの言葉一つ一つを記憶に刻み込む。忘れないように、しっかりと。


「……大好きだよ、託真」


 我慢していたのに、母さんの前でもう情けない自分は見せないつもりだったのに、どうしてか涙が溢れてくる。俺が泣いている間、母さんずっと頭を撫でてくれた。伝えないといけない言葉があると顔を上げる。


「俺も、母さんが大好きだ」


 声は震えて、涙声だったけど、それでも精一杯の気持ちを込めて言葉にした。母さんは嬉しそうに微笑んでいた。


「穂乃香……に、伝えないと……いけない事が、あるの。呼んできて」

「わかった」


 名残惜しくも握った手を離して母さんに背を向ける。病室を出る前に袖で涙を拭きとった。ドアを開けて穂乃香を呼ぶ。


「母さんが呼んでるよ」


 不安そうな表情のまま、穂乃香は一旦ドアの前で立ち止まり、深呼吸すると病室に入っていった。看護師さんは穂乃香を見届けた後、頑張って、と俺に告げて来た道を引き返していった。


 あれからも初老の医者は長椅子に座ったまま正面を見据えていた。訊きたいことがあって医者の元へ。


「母さんは、本当に……死ぬん、ですか」

「そうだね。時間は少ししか残されていない」


 医者はこちらを見ることなく、正面を向いたまま告げた。俺はまた期待して落胆した。違う答えが返ってくるなんて、そんな事あるわけないってわかっているはずなのに。刻々と命の灯が潰えていく母さんの姿が、言葉で説明されるよりも全てを物語っていたはずなのに。俺はこうして悲しむことしか出来なくて、母さんの命が尽きるその瞬間をただ待っている。


「お母さんから止められているが、ちゃんと治療すれば少しは時間を稼ぐことが出来た」


 この人は何を言っているのだろう、と思った。少しは時間が稼げる?それは、母さんの生きていられる時間を延ばせるということなのだろうか。ならどうして――。


「なんで、何にもしないんですか!」


 感情のまま怒鳴り声をぶつけた。気持ちの整理がずっと出来なかったけど、今だけははっきりと自覚している。俺は、この人に怒りの感情が芽生えている。


「あんたは医者だ! 何で、母さんを救ってくれない! 患者の命を救うのがあんたの役目だろ!」


 張り倒す勢いで初老の医者に詰め寄った。この人は何の権限があって母さんを見捨てたんだ。何も出来ない俺と違い、この人なら、母さんの命を繋ぐことが出来る。それが例え一時間でも一分でも、俺は、母さんが生きていてくれれば何を差し出しても惜しくはないと望んでいるのに。なぜ治療してくれない。どうして、出来るのに何もしてくれない。


 初老の医者がようやく顔を上げた。近くで見た顔はとても疲れて見え、瞳は寂しい色を浮かべていた。


「お母さんの願いだったのだよ」


 考えればすぐにわかることだった。何もしない医者などいるはずもない。まして、自分が不利になる事実をわざわざ告げる必要すらない。


「でも……それでも俺は、母さんに生きていてほしい」

「このまま喋ることも動くこともできず、僅かな時間を延命に使うくらいなら、喋れるうちに子供たちに自分の想いを伝えたいと、そう言っていたよ」


 話をしている時の医者の表情はどことなく淋しそうだった。母さんなら言いそうだと納得した。俺たちの為に、残りの命を使ってくれていた。


「すいません」


 医者は何も言わず黙っていた。


 ほどなくして穂乃香が病室から出てきた。泣いていた。穂乃香と母さんとの間でどんな話が交わされていたのかは知らない。この先も尋ねることはないだろうけど、穂乃香が見せたあの時の表情は今でも覚えている。悲しみと戸惑いの入り混じったような複雑な表情をしていた。それが少しばかり気になった。


 それから数時間で、俺と穂乃香が見守るなか母さんは息をひきとった。最後まで安らかな表情だった。俺と穂乃香は一日で両親を失った。


 怒ることも不機嫌になることもなく、いつも笑顔だった父さん。料理が得意で優しくて暖かかった母さん。


 俺と穂乃香が病気になると必ず仕事を休んで看病してくれた。忙しい両親に遠慮して近場の場所に行こうと言うと、その場所より少しでも遠くに連れて行ってくれた。二十歳になったらいっしょにお酒を飲もうと約束していた。


 もっと話をしたかった。もっと色々なところに行きたかった。もっと二人の笑った顔を見たかった。


 ねえ、母さん。俺は今でもあの時の約束、忘れてないから。

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