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ふれられないもの  作者: 柳
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父さんと母さん6

 

「ほとんど即死だったみたい。病院に着いたときにはもう、手の施しようがなかったって」


 それが事実だったとしても、理解できたとしても、父さんが死んだなんて実感がわかない。全然わからない。わかりたくないんだよ――。傍で啜り泣く穂乃香の声だけが、父さんが死んだ事実を俺に告げていた。


「お兄さんなんだから、しっかりしないと」


 看護師さんに言われて穂乃香へ顔を向ける。いつから泣いていてのだろうか。小さな肩を震わせ、寒さから自身を守るように両腕で抱きしめていた。どうして気付かなかったのだろうか、と不思議に感じた。こんなに弱っている穂乃香を、俺は見たことがないのに――。


 母さんの声が聞こえた気がした。今も、泣き続ける穂乃香に掛ける言葉は思い浮かばない。だからせめて、寒さから穂乃香を守ろうとそっと抱きしめて背中をさすった。それくらいのことしか思いつかなかったけれど、時間が経つにつれて泣き声と震えは治まってくれた。


 浅い呼吸を繰り返し、そっと顔を上げた穂乃香の表情は痛々しい笑顔が張り付いていた。こんな時に無理して作らなくてもいいのにと思い、俺がそうさせているのだとわかっていた。心配を掛けたくなくて、バラバラになりそうな心を必死に繋ぎ止めて、精一杯の強がりを見せる。俺と穂乃香は兄妹なんだと強く感じた。


 でも、そんな痛いだけの顔は見るに堪えなく、袖口の綺麗な部分でぐりぐりと穂乃香の顔を拭いた。それだけでもだいぶマシにはなったが、赤く腫れた目元だけはどうにもならない。


「一人にさせて、ごめんな」


 そう言って微笑んで見せたが、どう繕ったとしても穂乃香には伝わってしまうみたいで、痛々しい笑顔がだんだんと泣き顔に変わってしまった。一滴の涙が頬を伝い流れ落ちると、胸の中に穂乃香が飛び込んでくる。驚きつつ受け止めれば、今まで堪えていた感情を一気に爆発させるように大声で泣いた。それを見た瞬間、目頭が熱くなった。


 我慢しないといけない。俺はまだ泣くわけにはいかないんだと自身に強く言い聞かせた。距離を置いて、こちらの様子を心配そうに見つめてた看護師さんに話しかける。


「母さんは……無事、ですか?」


 その時の看護師さんのがどんな顔をしていたのか俺は知らない。表情から結果がわかってしまうのが怖くて、情けなくも下を向いて目を閉じていた。


 近くのドアが開く音がした。顔を向けると、そこには白衣姿の初老の医者がこちらを向いて立っていた。


「ご家族の方ですね」


 低い声だった。無表情でこちらを見つめる目は細く、言葉には一切の感情が感じられなかった。


「は、はい」


 返事をすると、医者はゆったりとした足取りで俺の前までやってくる。


「君が、桜井託真くんだね?」

「そうですけど……」


 髪の毛のほとんどが白髪になっており、顔に刻まれた深い皺が印象的な人だった。


「お母さんが待ってるよ」


 心臓が高鳴った。もう会えないのだと思っていた。良かった、と胸を撫で下ろし、穂乃香の手を取って医者が出てきた病室へと向かった。


「お母さんは、託真くんだけ呼んでほしいと言っていた」


 背中に話しかけられ、俺と穂乃香は足を止めた。振り返り、どうしてですか? と問う。


「お母さんが、そう言っていたんだよ」


 それ以上の説明はなく、かといって強制するつもりはないらしく、医者はそっと長椅子に腰を下ろしていた。隣を見る。穂乃香が不安そうな顔で俺を見ていた。俺だけを呼んだ理由はわからないが、直接母さんに尋ねてみればいい。


「ちょっと待っててな。すぐ戻ってくるから」


 穂乃香は小さく頷いた。母さんに会う前に看護師さんに声を掛ける。


「すいません。穂乃香の傍にいてください」


 そう言って頭を下げれば、看護師さんは二つ返事で了承してくれた。穂乃香を看護師さんに預け、母さんが待つ病室のドアを開ける。



 薄暗い病室に心電図の音が聞こえてくる。顔を向けた先のベットには母さんが眠っていて、周囲は複数の医療関係の機械が並んでいた。もう数歩近付けばふれられる距離にいる母さんが、何故だか遠くにいるように感じた。


 ゆっくりと閉じていた目蓋が開き、母さんの顔がこちらを向く。何かを言うように口を動かしていたが、小さくて聞こえない。急いでベットの脇に駆け寄る。


「ごめんね、心配かけて」


 数時間ぶりに聞いた母さんの声はとても小さく、今にも消えてしまいそうなほど頼りないものだった。


「いいんだよ。母さんが無事で本当よかった」


 元気じゃなくても、弱々しく見えてもいい。今はただ姿が見えて、声が聴けるだけで十分だった。元気になるまで時間が掛かってもいい。家に帰るのが遅くなったって構わない。どれだけの時間が掛かったとしても、いつもの日常を取り戻せるのならどれだけ大変だったとしても苦ではないと思っていた。


「何にも心配いらないよ。母さんは自分の身体のことだけ考えてくれれば。できれば早く治ってほしいけど、仕方ないよね。時間かかっても母さんが元気になってくれれば、俺はそれで――」

「母さん、もう長くないみたい」


 ぽつりと母さんが呟いた。途中まで言いかけた言葉が何処かへ行ってしまった。大切な話をしていたわけじゃない。けれど、言い続けなければならない話だった。母さんが治った後の話を続けていなければ不安だったから。


「……長くないって、なんだよ」


 言いたくないけど聞き返した。


「時間が、ないの。もうすぐ、母さんの心臓は止まってしまう。わかるよね?」

「そんなこと言わないでよ!」


 大声が室内に響いた。ただでさえ弱っている母さんに感情的に当たれば、余計な負担を身体に掛けてしまうかもしれない。でも、言わずにはいられなかった。母さんのその言葉はまるで、これから死ぬみたいに聞こえる。


「託真、よく聞いて」

「いやだよ! 母さんが死ぬなんて認めない!」


 自分が何に怒っているのかもわからなかった。色々な感情が溢れて、抑えられなくて、熱が頬を伝って流れていく。もう、母さんの顔が見れない。


「父さん、死んじゃったんだよ? 嘘みたいだけど本当で……もう母さんしかいないんだよ。母さんもいなくなったら俺たち……どうすればいいんだよ」

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