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ふれられないもの  作者: 柳
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父さんと母さん5

 

 目を開けると知らない部屋にて、知らないベットの上で横になっていた。遠くで、誰かの叫び声が聞こえた気がした。決して短くはない時間を、ただ天井を眺めて過ごしていた。


 いつからか、眼鏡かけた医者がベットの横にある椅子に腰かけていて、俺を見つめながら二、三質問を投げかけてきた。何と言われ何と答えたか憶えていない。眼鏡の医者は誰かに何かを言うと、立ち上がり部屋を出た。俺は夢の中にいるみたいで、聞こえてくる言葉や通りすぎて行く人が空虚な存在に感じられた。


「少し我慢してね」


 不思議なことに、その言葉だけはっきりと聞こえた。看護師さんは俺の腕を取り、肘辺りに出来ていた傷口を消毒してガーゼを張った。


 時折、痛む側頭部へ手を当てると包帯の感触があった。俺の怪我はたいしたことないらしく、処置は終了したと説明を受けた。


 しばらく横になっていると、朦朧としていた意識もだいぶしっかりとして、歪んでいた記憶がだんだんと鮮明に浮かんでくる。


 原型を留めていない車。穂乃香の泣き顔。消えそうな母さんの声。呼びかけても反応もしめさない父さん。室内を見渡す。探している人の姿がなくて落胆した。


 途端に心細くなった。だから、全てが夢だったんだと思うことにした。笑えない冗談だったとしても安心できた。家に帰れば穂乃香がいて、仕事で忙しくても電話で声を聞かせてくれる父さんがいて、淡々と家事をこなす母さんがいて、それで、いつも通りの日常で――。


 もう一度室内を見渡した。けれど探している人の姿は見つからなかった。側頭部が痛む。その痛みが自分の身に何かが起こったことを嫌でも伝えてくる。目を逸らしたくなる悲惨な光景が勝手に浮かんできては消えてくれない。


「あの……」


 縋る思いで看護師さんに声を掛けた。


「どうしたの? まだどこか痛い?」


 作業を止めてこちらを振り向く看護師さんの心配そうな表情を見た瞬間、言葉が詰まった。勘違いとわかっていても、その表情が俺を憐れんでいるように感じて、知りたくない事実がその口から告げられるのではないかと思うと、何も言い出せなくなった。


 どうしたの? と看護師さんが問い、俯く俺に視線を合わせようと屈むのがわかった。


 さっきから全身の震えが止まらない。吐き気もあった。それを悟られたくなくて必死に目を閉じた。あの時と同じ暗闇の中で、不安に押しつぶされそうになると、何処からか穂乃香の叫び声が聞こえた気がした。


「俺の家族、何処にいますか?」


 震える声は小さかったが、看護師さんが顔を寄せてくれていたので聞き届けてくれた。数秒の間、思案した様子を見せた後、


「ごめんなさい。わからないの」


 と申し訳なさそうに言った。


「そうですか」


 この人は知らなかったんだと安堵した。不安に押しつぶされそうになる感覚は軽くなったものの、穂乃香の叫び声だけが耳から離れなかった。


 ベットから身体を起こし、床に置いてあるスリッパに足を通す。擦り傷や打撲はあるが足元はしっかりとしている。


「まだ動いてはだめ。安静にしてないと」


 看護師さんが正面に立ち、ドアへ続く進行方向を塞いだ。そして諭すような声色で怪我の状態をもう一度説明して、もう少し休むように促した。勝手な行動をしている俺に問題があるにも関わらず、看護師さんは強引な手段は取らなかった。純粋に俺の身体を気遣っての行動だということが伝わってくる。


 でも、引けない理由が出来てしまった。どんなことをしても、病院内の何処かにいる穂乃香の元へ行かなければならない。


「家族が心配なんです。どうなったか、知りたいんです。それに穂乃香が……妹が、一人かもしれないんです」


 声を震わせながらも精一杯、自分の気持ちを伝えた。看護師さんは少し困ったような顔をして、壁の時計に視線を向け、一巡した後、もう一度俺を見た。


「付きそうでも構わない?」


 優しい人なんだと思った。部屋から出る前に看護師さんは何処かへ電話を掛け、俺の家族が今何処にいるのかを訊いてくれた。


 看護師さんに誘導されながら病院内を歩く。消灯時間を過ぎているのか院内は薄暗く、各所にある緑色の誘導灯が薄気味悪く廊下に反射していた。遠くで鳴る救急車のサイレンの音が不安を助長して、リノリウムの床を歩く時の寂しい音が気分を暗くさせる。


 不安は膨らむばかりだった。前を歩く看護師さんは口を開くことなく、俺も何も言わず、看護師さんの足元を見つめながら進んだ。幾つかの角を曲がると看護師さんが立ち止まった。そっと顔を上げると、視線の先の長椅子に穂乃香が座っていた。


「穂乃香」


 呼びかける。穂乃香が顔をあげた。遠目からでも顔が涙でぐしゃぐしゃになっているのがわかった。穂乃香が口を開いた。涙声ではっきりとは聞こえなかったが、確かに俺を呼んだのがわかった。全身を覆い尽くす様々な不安を悟られたくなく、必死に隠しながら穂乃香の元へ足を進めた。


「穂乃香。大丈夫か」


 こくん、と小さくだが頷いてくれた。記憶が途切れる前より衣服の汚れが目立つものの、大きな怪我はなさそうだった。穂乃香が無事だと確認できただけでも、少しだが気持ちに余裕が生まれたような気がした。ならば、と僅かな期待と余裕から口が軽くなる。


「父さんと母さん、何処にいる?」


 そう尋ねた途端、穂乃香の瞳に涙が滲んだ。そして、口元を両手で覆って、声を押し殺すようにして静かに泣き出した。


 どんな状況に置かれたとしても、ここが病院で、大きな声を出せば周囲の迷惑になると考えてしまう穂乃香は、こうして我慢するしかないのだろう。それでも抑えきれない悲痛な叫びは確かな重みを含んでいて、傍で聞いていると軽い立ちくらみが起きた。最悪の想像が現実を伴って胸に押し寄せてくる。


 泣き止まない穂乃香からでは正確な情報は得られそうになく、近くで留まってくれていた看護師さんの元へ足を向けた。まだ決まったわけじゃない、なんて気休めでしかない希望を抱きつつ。看護師さんは僅かに視線を下げて言った。


「さっき聞いたんだけど、お父さんは先程……亡くなったみたい」


 絶対に言ってほしくない予想通りの言葉だった。あの惨状であれば認めたくはないけど、命を落としてもおかしくはないって、思っていた。


 けど、思っていたことと、実際に言われるのとでは意味合いが大きくずれていることを、俺は、わかっていなかった。予想していたとしても、心の深い所では〝父さんが死ぬ〟なんてこれっぽちも思っていなかったのだから受けとめられるわけがない。理解できるはずもない。


 亡くなった? なんだよ、それ……。さっきまで一緒にいた。特別なことなんてなかった。ただ、久しぶりに家族そろって旅行に行った。でも、それくらいは普通のことで、贅沢で幸福な時間だったけど、それだけのことだった。


 豪華な夕食を食べた。普段できない話をして、一緒の部屋で寝た。すぐ隣にいたんだ。


「目を逸らさないで」


 両肩に置かれた看護師さんの手の力が思ったよりも強く、戸惑うばかりの思考が僅かに定まった。顔を上げると真っ直ぐな眼差しが目の前にあり、その奥に俺を気遣う類の色が見えた。

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