父さんと母さん4
「おい。どうなんだ?」
普段は見せない嬉しそうな父に応えたい気持ちはあったが、本当の事は言えず、かといって嘘もつきたくなかったので黙っていた。
「恥ずかしがることない。俺がお前の歳の頃は、色々と恋をしたもんだ」
背後のゴツゴツとした岩の淵に両腕を乗せ、遠くに見える山々を父さんは眺めていた。
「俺が高校生の時にクラス替えがあったんだ。そこですごい美人に出会った」
「すごい、美人?」
「母さんだ。母さんは学校で一、二を争うほどの美人でな。同学年の男はみんな母さんに想いを寄せていたんだ」
知らなかった。母さんが美人なことは、周囲の大人たちが常々言っていたから知っていたが、今の穂乃香と同じ立場だったなんて初めて耳にした。
「母さんは美人だった。でも、本当の意味で好かれていたのは、母さんが優しい人だったからだ。どんな人にも平等に接して、困っている人がいると見過ごせない」
「今と変わらない」
「そうだな。そんな母さんに本気で惚れてな。思いきって告白したんだ。あの日ほど緊張した時はなかった」
父さんは恥ずかしそうにしながらも、瞳は真剣だった。
「母さんの為なら何を差し出しても惜しくないって思えたんだ。託真も、そんな気持ちになったら迷わず告白すればいい」
その後、俺がなんと答えたのかは忘れてしまった。ただ、その時の父さんの笑顔が格好よかったのは覚えている。今でも鮮明に思い出すことができる。
でもね、父さん。本気になっても告白できない時はどうすればいいのかな? あの時に聞いておくべきだった。もう聞くことができない。
――――
楽しい時間はあっという間に終わってしまう。少し残念に思い、それでも充足感は確かにあった。帰りの車中では当然のように穂乃香は夢の中で、俺もまぶたが重くなりはじめていた。
父さんは運転はたどたどしくも常に安全を意識していた。でも、もしかしたら、父さんもどこか気が緩んでいたのかもしれない。
急カーブにさしかかった時、妙な動きをする対向車が見えた。対向車はこちらに引き寄せられるように中央車線を越える。それから先に起きたことはよく覚えていない。ただ、ぶつかると思った瞬間、眠っている穂乃香を抱きしめたのは覚えている。
大きな衝撃音と同時に身体が投げ出される感覚があった。次に覚えているのは暗闇の中で、車のクラクションが鳴り響いていたことだった。頭が痛かった。視界が揺れてしばらくの間、焦点が定まらなかった。
暗闇を眺めていると、穂乃香が倒れていることに気が付いた。呼びかけながら身体を揺すると小さくだが反応はあった。見たところ大きな外傷はなさそうだった。クラクションの音がうるさかった。
音のなる方へ顔を向けて愕然とした。車は異様な形をしていた。
後部座席より先のスペースは重機にでも圧縮されたように小さくなって、とても人が乗れる空間がそこにあるようには思えなかった。身動きのとれない後部座席からでは、父さんと母さんの姿は確認できなかった。でも、確認しなくてもわかった。こんな状態で父さんと母さんが無事なわけがない。
「父さん。母さん」
声が震えてうまく言葉にできない。それでも諦めたくなかった。
「父さん。母さん。大丈夫? ねえ。返事してよ。とうさん、かあさん」
張り上げた声は涙声になっていた。
「お兄ちゃん……どうしたの?」
穂乃香が目を覚ました。状況を把握していない。
「どうして泣いているの? 何があったの?」
何も言えなかった。どう言えばいいのかわからなかったし、何より言葉が喉から先へ出て来なかった。
「ここ何処? 私たち車の中に……」
息をのむ音が聞こえた。
「なに……これ……」
感情を感じないその言葉を最後に、穂乃香は一点を見つめたまま喋らなくなった。途端に不安になった。穂乃香までも遠くへ行ってしまうような気がした。
肩に手を置き呼びかける。穂乃香はゆっくりと顔を俺に向けた。
「大丈夫だ」
根拠はなかった。ただ、穂乃香を安心させて此処へ留めておきたい一心の発言だった。穂乃香の瞳に涙が滲んでいた。きっと俺も同じような顔をしていると思った。不安だった。それを紛らわすように穂乃香を抱き締めた。
ふと、クラクションの音と穂乃香の啜り泣く声とは異なる、微な声が聞こえた気がした。耳を澄ませてみれば、母さんの声が助手席側から聞こえてきた。安心してまた涙が溢れてきた。こんな状況でも母さんは生きている。
「二人とも……怪我、ない?」
途切れ途切れ届く言葉。それでも声を聞く度に安心できた。
「俺と穂乃香は大丈夫だよ」
「そう。よかった」
父さんは、大丈夫なの? と訊こうとして言葉が詰まった。穂乃香が母さんを呼ぶ。返事はない。もう一度呼びかけるが、母さんの声は聞こえてこなかった。
何度呼びかけても返事はなかった。声を張り上げると視界が揺れた。世界が揺れているのか、自分が揺れているのかもわからなくなってドアに寄り掛かる。
頭痛がひどくなっている。痛む箇所に手を当てると違和感があった。穂乃香は諦めずに何度も、何度も、何度も、父さんと母さんを泣きながら呼び続けた。頭から手を離してみると真っ赤に染まっていた。
「なんだよ……これ」
遠くからサイレンの音が近づいてくる。そこで意識が途切れた。




