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ふれられないもの  作者: 柳
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小さな出会い5

 

 ここなら誰にも見つからない。腕の中へ視線を向ければ、仔犬が目を覚ましていた。窮屈だっただろう、と仔犬をおろして自由にさせた。ここには落下防止の柵もちゃんとしてあるので、万が一にも落ちる心配はない。


 仔犬はきょろきょろと辺りを見回した後、気のみ気のまま縦横無尽に駆けずり回った。その姿を横目に、俺は適当なところに腰をおろし、コンクリートの上で寝そべった。視界には青い空だけがあって、雲がゆっくりと流れていく。しばらくして満足したのか仔犬が戻ってきた。


 息を切らし嬉しそうに目をきらきらさせている。頭を撫でてやると、気持ち良さそうに目を閉じた。


「どうしてお前、捨てられたんだろうな」


 動物を捨てなくてはならない理由を挙げようとすれば切がないだろう。人の数だけ訳があって、環境と時間によっても変化していく。責任放棄、と言葉で言ってしまえば単純ではあるものの、それだけでは済まされない事情が個々にある。


 捨てた人を擁護しようとは思わない。ただ、不思議に思う。無邪気なこいつを見ていると、捨るなんて選択肢が浮かばない。実際に捨てられたのだから、考えても仕方ないことだが。


 四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。しばらくして屋上の扉が開く音と話声が背後で聞こえてきた。その音の中で一人だけ、早足になってこちらに向かってくる人物がいた。穂乃香だろう、と思いながら振り返れば、意外にも仔犬を抱き上げたのは雪花だった。


「やわらかい」


 優しくも柔らかい声が聞こえたかと思えば、普段なら決して見せない蕩けた表情を雪花が晒していた。鋭い視線も、毅然とした態度もなく、仔犬が大好きでたまらないと全身で表すような、そんな普通の女の子に変貌している。そんな優しい顔も出来るのだと驚きながら眺めていれば、雪花と視線が合った。まるで今の今まで俺の存在を忘れていたかのように、羞恥に顔を上気させては、何か言いたげな非難めいた視線で睨みつけてくる。


 俺は悪くないだろ。そう言えば、雪花も何かしら因縁を無理やりこじつけて反論してくるのが目に見える。もし俺が、雪花のような羞恥に悶える出来事が起きたとして、それを誰かに見られて一番きついのは、何も言われないことだと思う。同情する気持ちはあるが、もう少しだけ希少な雪花を見ているのも悪くないように思え、そのまま続けてください、という意味を込めて微笑みを返した。


 それが逆効果だったのか、はたまた何をしても無意味だったのか、雪花は不意に出してしまった素の自分を隠すようにさっと顔を背けてしまった。そして近くにいた夕貴へと仔犬を渡した。少しばかり強引な雪花の行動に、不自然に感じながらも夕貴は何も言わなかった。


「もう少し待っててね」


 いつ用意したのか、穂乃香は小さいカップに牛乳を注いでいた。夕貴がそっと仔犬を地に下ろすと、仔犬は激しく尻尾を振りながら穂乃香に駆け寄った。


「託真くんが学校にいなかったのは、この仔犬と一緒にいたからですか?」


 今日も昼食に参加していたのか、滝椿が俺の隣に立つ。


「まあ、な」

「頬が赤くなっているのも、何か関係があるんですか?」

「これは……まあ、違う」


 とっさに言い訳が浮かばず、言葉に詰まった俺を滝椿が不審そうに見つめた。別に隠すこともない些細な出来事ではあるが、たいしたことない、と適当にごまかして視線をそらした。


「ところで、この子どうしたの?」


 一人にして、と言わんばかりにそっぽを向いた雪花も、ようやく照れが吹っ切れたのか、何事もなかったかのように俺に問い掛けてくる。理由は簡単に説明できる。でも、俺は口をつぐんだまま何も言わなかった。


 雪花の何気ない問いが、知らなければ当然のその言葉が、俺には不自然に感じた。そっと視線を巡らせば雪花だけでなく、夕貴も滝椿もどうして俺が仔犬を学校に連れてきているのか、その理由を知らなそうな顔をしていた。


 最後に穂乃香を見た。その話題が出ても、穂乃香は今までと変わらず仔犬の頭を撫でている。ただ、僅かに表情が硬くなっているのを見逃さなかった。


 “また、言えなかったんだな”


 学校に着いてからここへ来るまでに、穂乃香と雪花とで交わされていた会話の内容は知る由もないが、これだけは言える。穂乃香は意図的に事実を伝えなかった。もしくは、伝えられなかったということ。仔犬を拾ったことは話せても、捨てられていたことは言えなかった。


 捨てる、という無責任の先には少なくない死が待っていることを知っている。殺される命があることを知っている。


 捨てた人の事情。捨てられる動物の心体的事情。意識していなくても、様々な事情で、まだ生きられたはずの命があった事実を、俺たちは知っている。穂乃香が言いたくないのなら、それで構わない。


 簡単に、今朝からの経緯を話すと、事実が事実だけに浮かれた雰囲気ではいられなくなる。話を聞き終えた雪花は仔犬を抱き締めていた。


「これからどうするつもりですか?」


 誰もが口を閉ざす中、助かることに滝椿が先を促した。選択肢はいくつか存在する。俺と穂乃香で飼ってくれる人を探したり、ペットショップに仔犬を預け里親を探してもらう方法が思いつく。それでも見つからない時は見つからない。とくにこいつの場合は片目を失くしている。


 それを傷物として見てしまうのは仕方ない。これから一緒に暮らすなら、綺麗で幼く可愛い生き物の方が好ましく思うのは誰でも同じ。それほど長くない老犬を飼う人は稀だ。


 穂乃香が心配そうに俺を見つめていた。そんな顔は見たくなくて、少し乱暴に頭を撫でた。


「大丈夫。言ったよな。なんとかするって」


 全てを救うことは叶わないと知っている。目を向けて、善意から手を差し伸べても、必ず良い結果に繋がるとは限らないことを学んでいる。個人で里親を探せば数カ月も要した。里親がいつまでも見つからなかった結果、預けたあの子がその後どうなったのか。


 何も知らなかった俺たちは見捨てることなんて出来なくて、深く入れ込んでしまった。結果、情が生まれ、想いの分だけ突然の悲しみを受け入れざるおえなかった。


 見なかったことにするのが一番なのはわかっている。それで穂乃香の悲しみが軽くなるのでであれば、それでいいと。


 なら、こいつはどうする? その疑問をずっと抱え続けていた。


「しばらくは俺の家で飼うことにするよ。それで、その後は、まあ、なんとかなるだろう」


 選べる選択肢は多くない。その内で一番いい選択肢、なんて事は過ぎてみなければわからない。だから今は、これでいいのだと思う。


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