小さな出会い4
が、いつになっても頬を張られることはなく、目を開けてみれば谷村は俺を見ていなかった。顔を後ろへ向けたまま固まっている。他の教師でも来たのかと思い、谷村に隠れている人物を見ようと顔を横にずらせば、ここにいるはずもない人物が立っていた。らしくない表情をして、敵意に満ちた視線を谷村に向けていた。
「託真をいじめないで!」
廊下に響きわたるほど大きな声。谷村は放心状態といった感じで呆然と穂乃香を見つめていた。
穂乃香が怒っていた。温厚な性格で、大抵のことは許してしまう穂乃香が――。時にはムッとする瞬間はあるものの、それでも怒鳴ることはない。そんな穂乃香が、明確な一人のひとに対して怒りを露にしている。
稀な状況に俺ですら驚いていた。しばらく経って谷村が口を開く。
「先生はだな、ただ説教をしていただけだ」
弁解するように言ったが、穂乃香の瞳に宿る敵意は消えない。
「生徒への暴力行為のどこが説教なのでしょうか。私には〝体罰〟にしか見えません」
「体罰なんて大げさだ」
「いえ、そんな事ありません。これは立派な体罰です」
穂乃香は呼吸を整えると、谷村を真っ直ぐに見据えた。
「谷村先生には、正当な手段で裁かれてもらわなくてはいけません」
「正当な手段って……これはだな、ただのおふざけの延長線みたいなものだ」
「いえ、私には谷村先生のおっしゃるような〝おふざけ〟の域を超えて見えます。ですから、しかるべき場所に連絡して事実を報告します」
その瞬間、谷村の顔色が変わった。血の気の失せた青白い顔になり、見たこともない怯えた表情をしていた。今までに谷村をこんな表情にさせた人物はいないだろう。
谷村が権力と暴力を持ち合わせているなら、穂乃香は正論と強い意志。それに多くの教師の絶大な信頼と信用がある。こちらに非がないとすれば、穂乃香に負ける理由がない。
「悪かった。ついむきになってしまった。すまない」
自分の非を認め、谷村は穂乃香に頭を下げた。
「私ではなく、託真に謝ってください」
穂乃香に促されるまま、谷村は渋々と俺に頭を軽く下げた。それは谷村にとって屈辱以外のなにものでもないのだろう。顔を上げる一瞬、殺意を帯びた視線を俺に向けていた。
「早く授業に戻るんだぞ」
谷村は逃げるように背を向けて走っていった。傲慢な威勢はどこえやら、委縮した中年の教師の姿が視界から消えるまで、俺は視線を逸らさなかった。ふと気づけば、手を伸ばせばふれられる距離に穂乃香がいた。反射的に半歩後ろに下がる。
「大丈夫?」
穂乃香は痛々しい表情をうかべながら、叩かれた頬を軽くさわった。つい今しがたの〝怖い穂乃香〟は何処にもいない。
「たいしたことないって」
穂乃香に心配かけまいと嘘を吐く。無理はしていないが、意識しなくても叩かれた頬は熱を持ち、少しふれただけで痛みが走る。それでもこういった痛みには慣れている。俺が平気だと振る舞えば穂乃香の心配も和らいでいく。
「それよりどうしてここにいるんだ? 授業中だろ?」
話題を逸らそうと尋ねてみれば、穂乃香は少しだけ視線を逸らした。
「教室から見えたから」
なるほど、と思った。穂乃香の瞳が微かに揺れていた。隠し事しをしているつもりなのかもしれないが、俺から見たらとてもわかりやすい。教室から見えた、と言う言葉に隠された部分は、少なからず俺に怒られると思うことをしている。
授業中、教師の言葉も聞かず、黒板ではなくずっと外を見ては、俺が来るのを待っていたのかもしれない。まったく、と溜息は出るものの、別れた際にこれからどうするのかを伝えられなかった俺にも責任はある。
「とりあえずだ。教師に見つかるとまた面倒な事になるから、屋上で時間をつぶすことにするよ」
一度下駄箱へ足を運び、眠っている仔犬を抱え階段を上った。問題ないと言っても、穂乃香は心配そうに叩かれた頬を見つめていた。
一階から二階へ。そのまま三階へと足を進めたが、後ろが気になり踊り場で足を止めた。どういうつもりなのか、教室のある階はとうに過ぎているのに穂乃香はいつまでも付いてくる。この先に行く用事もなければ、このまま付いてくる必要も当然ない。何か理由があるのだろうか。
「あの、穂乃香?」
と振り返れば、なんですか? と無邪気な顔を向けられた。
「どうして俺についてくるんだ?」
「どうして?」
穂乃香が首を傾げる。その仕草はまるで、俺の発言が間違っているかのようだった。
「穂乃香は授業があるだろ」
「託だってあります」
「俺はいいんだよ。朝いなかった奴が今戻っても変だろ?」
「同じです。私も抜けてきました」
「同じ、じゃないだろ……」
俺が何を言いたいのかは伝わっているはずなのに、穂乃香はあえて応えことなく、ああ言えばこう言う幼稚な、子供のような物言いで反論している。そうまでして付いて来ようとする理由はきっと、俺にあるのだろう。仔犬のことに加え、教師との暴力沙汰を目撃すれば誰だって不安にもなる。俺が穂乃香の立場なら同じようなことを言うだろうし、何を言われても無理にでも付いていく。
そうだとしても、戻れるなら戻った方がいいし、他の教師に二人でいるところを見られれば何かと都合も悪くなる。そう言い返したところで穂乃香は納得しないだろうことは、その真っすぐな瞳を見ればわかる。
「いいから、穂乃香は戻るんだ。じゃないと俺が困る。わかるだろ?」
卑怯な言い方だが、俺が困ると言えば穂乃香は聞こえなかった振りは出来ない。途方もない時間を共に過ごしてきたんだ。穂乃香のことなら誰よりも知っている。
「でも――」
「大丈夫だから」
穂乃香の言葉を遮り、駄目押しの一言を告げる。それでも何か言いたそうに俺を見ていたが、渋々といった感じで穂乃香は階段を下りて自分の教室へ戻っていった。何もかもを俺に付き合う必要はない。
階段を上る。最上階から屋上のドアを開け一歩踏み入れると、そこは学校とは思えないほど静かな空間が広がっている。




