小さな出会い3
下駄箱で靴を履きかえていると、誰かの足音が聞こえてきた。咄嗟に下駄箱の中へ仔犬を隠した直後、大きな足音で近づいてきていた人物が俺を捉えた。
「そこにいるのは誰だ。今は授業中だぞ」
眉間にいくつもの皺を寄せたゴツイ体付きの男子教師。学年主任の谷村がこちらにやってくる。俺は視線を合わせないようにしながら、何事もなかったように通り過ぎようと歩き出す。
「ちょっと待て」
肩を捕まれた。ふれられたことが不愉快で耐えられなく、俺は谷村へと顔を向けた。
「桜井か……」
谷村は口元を緩めいやらしく笑っていた。緩み切った頬と隙だらけの硬そうな顎から視線が逸らせない。
「ちょうどいい。お前にはじっくり説教したいと思っていたところだ」
谷村は新しい玩具を買ってもらった子供のように、嬉しそうに目を輝かせていた。実際、いい獲物を見つけたのは事実だった。煮えたぎる感情を押し殺し、努めて平然な態度で谷村に向かい合う。好かない人ではあるものの教師である事実は変わらない。面倒な展開だけは避けなければならない。
「トイレ、行くところです」
我慢に我慢を重ね振り絞った精一杯の敬語だったが、そんなことで谷村が見逃してくれるとは思っていなかった。
「どうせ嘘だろ」
谷村という教師は証拠もなく、憶測で何事も決めつける。嫌われて当然の性格をしている。
「お前は……。まったくお前は嘘ばかりついて。サボってたんだろ? 駄目な奴は駄目なんだから勉強しろよ」
俺を見下しわざとらしく溜息を吐く。
「お前みたいな人間は社会に出てもどうせ駄目なんだろうが、学校にいる間に少しでも俺が更正させてやるから、な」
谷村は人差し指で俺の額を小突いた。不愉快が胸の奥から湧き上がってくるものの、愚かな人の戯言だと思い込めばまだ我慢できた。
「どうしてお前みたいなんが、ここにいるんだろうな」
立て続けに小突かれる。指先で同じ場所を叩かれ続ければ痛みは強くなっていく。痛みを無視していれば、心を失くせば、耳も遠くなる。一時的でも感情を殺せば時間は過ぎていく。
「それにしてもだ」
反応が薄く飽きたのか、谷村は小突くのを止めた。
「〝お前の妹は〟猫を被るのが上手いな。他の先生方は知らんが、俺は騙されないぞ?」
谷村が顔を近づけてくると異臭が鼻を締め付けた。全身の熱が上がるのを自覚した。
子供のような幼稚な遊びなら見逃せた。悪臭も、こいつなら仕方ないと思えば我慢できた。ただ、品性の欠片もない稚拙で、教養もない愚かな人だと思っていても見逃せない言葉がある。
「底辺が、俺の妹の話題を口にするな」
考えるよりも先に言葉が出てきた。我慢できなくなったんじゃない。今の言葉だけは無視できないからだ。
「今、なんて言った」
反論するとは思っていなかったのだろう。谷村は聞こえているはずの言葉を聞き返した。
まったく、と溜息が漏れた。この手の輩は、自分に暴言が向けられれば決まって同じ台詞を吐く。そして、感情を抑えられず言葉を乱しては後先考えずに暴力に身を任せていく。何度も聞かされるこっちの身にもなってもらいたい。馬鹿らしくて恥ずかしい。
「臭い、と言ったんです」
何も知らない人と、これ以上穂乃香の話を続けるつもりはなかった。交わす言葉もない。
「いつも思っていたんですよ。香水つけてます? なんか匂うんですよね。やめたほうがいいですよ、みんな嫌がってますから。あー、でも、よく考えると香水なんてつけるわけないか。体臭ですね」
はは、と乾いた笑い声が廊下に響いた。
「教師を侮辱するのか!」
「侮辱? 何言っているんですか? 僕は忠告しているだけですよ。このままでは生徒に嫌われますよって」
相手を効果的に苛立たせるには笑顔でいればいい。俺が微笑みを向ける相手には、十二分に不快に思ってもらわないとならない。それでも足りないが、真っ赤に顔を震わせている人の姿は何とも滑稽だ。
「嫌われるのとは違いますね。すでに全生徒が〝先生〟を嫌ってます」
止まることなく吐き出される暴言の数々。谷村の手が小刻みに震えだし、限界を向かえようとしいるのがわかった。それでも止まらない。
「先生は結婚してないですよね? 正解です。あなたみたいな人と結婚したら、相手の人が可哀相ですから」
言い終わった瞬間、強烈なビンタが飛んできた。力だけはあるらしく、視界が揺れたが、俺は怯むことなく睨み返す。
「ふ、ふざけやがって!」
激昂から顔を真っ赤にして呼吸を乱している。二発、三発と立て続けに頬を張られた。何度暴力を振るわれようが、俺の目は谷村を睨み付けたまま離さなかった。
「生徒ごときが……お前みたいなクズが……教師である俺に口答えなど許さん!」
谷村の沸点はとうに超えていた。それを知っていて暴言を吐いていたのだが、これから何発貰えば気が済むのだろうかと思えば嫌にはなる。
谷村は教師の中ではなかなかに権力があった。俺が暴力を他の教師に訴えようと、無かったものとして処理されるだろう。日頃の、教師に対する俺の態度が悪い所為もあるだろうけれど、どんな条件であっても、味方してくれる教師は思い当たらない。
理不尽な処置は何度か見てきた。最初から言いつけるつもりは毛頭なく、このままやられっぱなしというのも身体に悪そうだな、と呑気に思うだけ。歯向かったことに後悔はない。こちらから手は出せないが、ただせめて、こいつの前で膝を折る真似だけはしたくなかった。
更にもう一発張られる。頬ならば痛みだけで済むのだが、顎を揺さぶられれば足元が揺らぐ。俺が倒れたくないと思うのと同じく、谷村は床に這いつくばる俺を見下ろしたいのだ。
その時がくるまで、一方的な暴力は終わらない。もう数えるのも面倒になり、何発目だかが飛んでくる瞬間、歯を食いしばり目を閉じた。




