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ふれられないもの  作者: 柳
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小さな出会い

 

 からっと晴れた青空の下、いつものように通学路を並んで歩いていたが、ふと隣にいたはずの穂乃香がいなくなっていた。ほんの数秒前まではそこにいて、当然のように居るものだと思い込んでいた人が突然いなくなる感覚はなんとも心臓に悪い。否応なく数年前の記憶が呼び起こされ息が詰まった。


 慌てて辺りを見渡せば、道の反対側の電柱の影に座り込んでいる穂乃香の後姿があった。数秒目を離したくらいで遠くに行けるはずもない。ほっと胸を撫で下ろしつつ、何をしているのだろうか、と思いながら穂乃香の元へ足を向けた。


「どうした?」


 声を掛ければ穂乃香は顔をこちらに向けた。同時に妙な物が視界に映り込んだ。穂乃香の腕の中にある黒い綿のような塊。


「それは、なんだ」


 よくわからない物体を穂乃香は大事そうに抱えている。一見すればゴミにみえなくもない。


「なにって……犬だよ」


 穂乃香は言う。


「犬なのか?」

「うん。かわいいでしょ」


 ほら、と言うように穂乃香は黒い物体を俺に差し出した。本音を言えば遠慮したかった。だが、穂乃香に差し出されれば断りづらい。


 そっと手を伸ばしてふれてみれば、見た目以上に毛は柔らかくて温かった。なんとも癖になるさわり心地にしばらく撫で続けていれば、仔犬の目が開いた。光に反射するように輝くビー玉のような真ん丸な瞳。


 綺麗だと思った。けれど残念なことに、その輝きは片方だけだった。


「どうしたんだこいつ?」


 そう穂乃香に尋ねれば笑みが消えた。穂乃香の視線の先には小さい段ボールが置いてあり、正面に小さい文字が書かれてあった。〝どなたか拾ってください〟。酷い話だと、心の中で呟いた。


「この子……捨てられてるんだよね」


 穂乃香の声は微かに震えていた。嬉しそうな笑みは、もうない。わざわざ俺に確認しなくても、目の前にそう書かれているのに――。そうであって欲しくないと考えても、都合よく事実が変わるわけもない。


「だからって、家で飼うわけにはいかない。わかるだろ?」


 次に穂乃香が言い出す言葉を俺は予想できた。だから、言葉を塞いだ。穂乃香は何も言わなかった。


 仔犬が俺を見ていた。見捨てろと言った俺を、仔犬は無邪気な顔で見つめていた。人間の身勝手な都合など知りもしない。これから自分がどうなるのかもわかっていない。


 最悪、殺されることもあるだろう。けれど、だからと言って、同情したところで何かが変わるわけもない。可哀想だが、捨てられている動物を見つけるたびに面倒をみるわけにはいかない。


「穂乃香。箱に戻すんだ」


 穂乃香は動こうとしなかった。名残惜しそうに仔犬の身体を撫で続けていた。


 しばらくして穂乃香は小さく頷いてくれた。俺の言うことにただ従ったわけではなく、穂乃香も本当はわかっている。でも、わかっていても心と身体が動かない。どうしようもないんだ。


 見上げれば透き通った青空が広がっているのに、ここの空気だけが重く感じる。掛ける言葉が思いつかない。どんな言葉を用いても虚しく思えて、誤魔化しても繕えない気がした。


 俺に出来ることはそれほど多くはない。再び仔犬が俺を見ていた。黒く光る瞳が向けられていた。せめて、俺は目を逸らすべきではないと思った。


 どのくら見つめ合っていたのか、仔犬は俺から顔を逸らして穂乃香へ顔を戻した。匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせたかと思えば、真っ赤な小さな舌をちょこんと出しておもむろに穂乃香の頬を舐めた。犬らしい行動だったが、突然舐めらた穂乃香は驚いて顔を上げた。


 戯れるように、何度も舐める行為を繰り返す仔犬から穂乃香はたまらす身体を離した。くすぐったかったのだろう。そして、次の瞬間には微笑んでいた。


「戻さなくていい」


 穂乃香は戸惑った顔をして俺を見た。戻せと、関わるなと言った俺が矛盾の言葉を吐いた。


 大切だと感じた。戯に深い意味はなくても、穂乃香を慰めようとしてくれたこいつを、このままにはしたくないと思ってしまった。勝手な話だ、と我ながら呆れる。


「穂乃香はそのままでいい。俺がなんとかする」


 そう言って二人分の鞄と弁当を持ち、穂乃香の背中を押した。


 だいぶ時間が経っていたらしく、学校へ着くと同時に予鈴が鳴った。屋外に生徒の姿はなく、動物を連れてきたことを目撃される心配はなくなった。もし誰かに見られたとしても、穂乃香の抱えているこの物体を、一目で犬とわかる者は少ないと思う。黒いぬいぐるみを持ち歩いている、と認識されるだろう。


 じっとしていれば生物には見えなく、そして、穏やかな性格なのか出会ったばかりの人間に抱かれていても一切抵抗する様子はない。信頼しているように身を任せている。


 けれど、動物の考えていることは人間にはわからない。今は大人しくしていても、不意に動いたり鳴いたりするかもしれない。校舎に動物を連れてきたことが知られれば、騒がれてしまう危険がある。


「急げば間に合いそうだ」


 穂乃香から仔犬を取り上げ鞄を渡した。


「託はどうするの?」


 その質問の答えを俺は持っていなかった。


「なんとかするって、早く行け」


 穂乃香はその場を動こうとしなかった。仔犬と俺がこの後どうするのか心配なのだろう。少し強引に背中を押して行かせた。穂乃香は何度も何度も振り返り、心配そうな顔を見せながら校舎へ入っていった。これからどうしようかと色々と考えをめぐらせていると、くぅん、と寂しそうな声が聞こえた。


「腹が減ったのか?」


 犬がどこまで人の言葉を理解しているかわからない。でも、仔犬が頷いたように感じた。それは目の錯覚で気のせいなのかもしれないが、そう見えたのだから仕方ない。俺は身体を反転させ、来た道を引き返し始めた。


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