穂乃香の周辺6
家へ帰ると怪我の手当てを強制的に受けた。大袈裟だと思っていたものの、鏡に映った顔は所々が赤く腫れ、拭き切れなかった血が生々しく残り、予想していたよりも酷い顔になっていた。穂乃香は困った顔を浮かべながら念入りに傷を消毒し、しっかりとガーゼを張った。
「ありがとうな」
手当てが終わった後も、穂乃香は俺を見つめていた。
「どうした?」
「昔も、こんなことあったの思い出してね」
「そうだったか?」
穂乃香の前では争い事を起こさないように気を付けている。思い当たる節がない。
「忘れちゃったの?」
「ごめん、いつの話?」
「小学生の頃、私が上級生に絡まれていた時だよ」
ああ、と当時の光景が甦った。
「そんな昔のことよく覚えていたな」
「忘れないよ」
穂乃香はそれが大切な思い出のように呟いていた。今からすればたいした話ではないが、当時の俺にとっては重大事件だった。
小学四年の秋。俺と穂乃香は一緒に帰っていた。けれど、その日は俺の帰りが遅くなり、珍しく別々に帰ることになった。
その道すがら、公園の前を通り過ぎると誰かの泣き声が聞こえてきた。一瞬で誰だかわかった。公園を見ると上級生の男三人に囲まれている。
「ほのかー!」
俺は全速力で走った。声に気付いた三人は一斉に振り向いた直後、俺は一番近くにいる人物にランドセルを投げ付けた。
「うわ」
ぶつけられた上級生は態勢を崩し倒れる。その隙に飛び掛かった。
何をしていた! と問う事もなく、もしかしたら穂乃香が悪いかもしれない、とも考えなかった。馬乗りになり一心不乱に力のかぎり殴り続けた。しばらく遠巻きに眺めていた二人も状況を理解し、慌てて俺を引き離しにかかった。
そして、本格的に三対一の喧嘩が始まった。いくら全力を出したとしても、子供の力で上級生三人を相手に出来るわけもなかった。必死の抵抗も虚しく、結局ぼこぼこにされた。
「やめて! お兄ちゃんが死んじゃうよ」
ぼろ雑巾のように横たわる俺に、泣き叫びながら穂乃香が覆いかぶさる。
「穂乃香……はなれて――」
「いや!」
「おれは……だいじょうぶ……だから」
「いや!」
必死にしがみつき、俺を守ろうとしていた。それではいけないと、俺は離れない穂乃香を必死に引き剥がそうとした。
言葉で“離れろ”と言い、力の入らない手で押しのけようと苦労していると、いつの間にか辺りが静かになっているのに気がついた。辺りを見回すと上級生の姿はなくなっていた。
いつ帰ったのだろうか。もう頑張る必要はないのだと確認した瞬間、張り詰めていた何かが切れ力が抜ける。踏まれ、蹴られ、殴られ、ぶつけられ。あっちこっちが痛くて今すぐには起き上がれそうになくて、そのまま空を見続けた。
耳元からは、わーわーと大声で泣く穂乃香の声だけが響いていた。俺が経験した、初めての喧嘩だった。その帰り道、俺は穂乃香に訊いた。
「なんで絡まれてたんだ?」
大人しい穂乃香が誰かと喧嘩をすることが珍しく、穂乃香が原因だとも思えなかった。
「低学年の子がね、意地悪されてたから……」
それを聞いて納得した。隣を歩く穂乃香の頭を乱舞に撫でた。
「えらいぞ」
そう言うと穂乃香は照れながら笑っていた。
「何笑っているの?」
穂乃香の声で現実に戻る。
「穂乃香は昔から変わらないなあー、と思って」
「そうかな? 少しはわかったと思うけど」
「変わらないよ。子供の頃のままだ」
少しからかい気味に言うと、穂乃香はむっとしていた。
「それを言うなら、託だって変わらないよ。子供っぽいところいっぱいある」
抵抗しているのだろうか。そんなところも愛らしい。
「だいぶ変わったと思うけど」
「変わらない」
そんな言い合いを何度か繰り返しあった。無意味と知りつつも、こんなやりとりも楽しくて、いつの間にか二人で笑いあっていた。笑顔で終わった一連の騒動だったが、その日が終了する少し前に、最後の試練が俺を待っていた。
咀嚼する度に染みる夕食をどうにか終えて、浴室に向かったのだが、何気ない一日の疲れと汗を流すための風呂が、これほど俺を追いつめるとは思わなかった。軽くお湯を体にかけただけでヒリヒリと痛む。この痛みも懐かしい、と思いながら頭を洗っていると、背後で人の気配がした。言うまでもなく一人しかいない。
「あの……託?」
「どうした?」
そう尋ねた後、扉が開く音がした。
「おい、勝手にあける……な」
自分の目を疑った。そこにはタオルを身体に巻き、ほんのりと頬を赤く染めた穂乃香がいる。あれだけ沁みた体の痛みを感じなくなり、思考が停止し言葉を失った。
「その……今日のお礼に、背中を流そうかと……」
目線を外しながら恥ずかしそうにバスタオルを押さえていた。
「そうか……」
後ろに向けていた顔を正面に戻す。視線は手元から動かなかった。目に映ったのは白く張りのある肌。タオル越しの華奢な体つきが、生々しく脳裏に焼き付いている。背後で動く気配がした。狭い浴室では距離は空けられない。
「俺なら大丈夫だよ。背中、洗えてるだろ?」
俺からは見えないが、背中は少し前に洗ったばかりで、泡が付いているのが穂乃香にも見えているだろう。もう終えてしまったのなら、穂乃香の提案は必要ないことになる。
それでも、穂乃香は浴室から出ていく気配はなく、でも……、と呟いた声は、穂乃香が困った時に出る声色だった。何か言いたそうにしているのが手に取るようにわかってしまう。
服も脱いで、準備万端な状態で断られれば、穂乃香が困るのは目に見えている。でも、この状況を許してしまっていいのだろうか?
「いいよね?」
普段は使わない甘えた声が耳を通して脳を痺れさせる。そんな反則擬いで言われてしまえば、俺の都合だけで嫌とは言えなくなる。冷静に考えれば言いようはいくらでもあったはずなのに、今はただ、黙って頷く以外の選択肢は存在しなかった。
「あまりこっち見ない、でね。恥ずかしいから」
そう言った直後、背中にスポンジと穂乃香の手の感触が伝わってくる。




