穂乃香の周辺4
なかなかに硬そうな構えだと思った。有名と言うのも嘘ではないかもしれない。そんな相手を前に構えることなく自然体でいた。
程よく力が抜け、いつでも動ける体勢だ。ようやく身体も温まってきた。目も良く見える。若干のふらつきはあるものの大したことはない。
久しぶりの戦いだ、簡単に終わってはつまらない。そう思えば自然と笑みが零れた。
俺は絶対に負けない。何度倒れても立ち上がれる。俺は、穂乃香を守るためなら何だって出来る。
「いくぞ」
男は俺から目を離さず慎重な足取りで近づいてくる。脇を締め、身体を丸めるようにして進む様は大きな岩のようだった。崩すのは容易ではない。
隙を見せない男へと視線を注ぎ、その時が始まるのを待ち構えていると、その足が不自然な場所でぴたりと止まった。どうしたのかと思ったのと同時に足音が聞こえた。
次に起こった予期せぬ事態に一番に驚いたのは俺だった。当分は戻らないと思っていた穂乃香が、目の前に立ち、震える手を広げている。
「俺は大丈夫だから、離れててくれ」
穂乃香の肩を掴み下がらせようとしたが、頑なにその場所から動こうとしなかった。
「いやだよ。これ以上、託真が傷つくのを黙って見ていらない」
今まで恐怖に怯えて後ろに隠れていたはずの穂乃香が、こうして俺を守ろうと目の前に立っている。その光景に危機感を覚えながらも、懐かしい思いに駆られていた。
あの時と変わらない。怖くて怖くて仕方がないはずなのに、口調はびっくりするほどはっきりしていて、絶対に譲らない強い意思を感じる。こうなった穂乃香を言葉で従わせるのは難しく、妙案すら思い浮かばない。男と争うよりも、穂乃香をこの場から離れてもらう方が困難に思えた。
「悪いが、このままやらせてもらう」
どんな状況が降りかかろうと、勝機となれば迷うことなく掴むその姿勢は拳闘家のそれだ。ルールなどない喧嘩に〝待った〟はない。
迎え撃とうにも穂乃香を無視するわけにはいかない。俺が何よりも優先しなければならないことは穂乃香に危害を及ばさないことだ。
咄嗟に穂乃香を抱き締め、男に無防備な背中を晒した。胸の中で穂乃香が叫んだ。
「大丈夫。俺が絶対に守ってやるから」
身を差しだす格好のまま強く目をつむった。どうか穂乃香だけは、と誰にともなく祈った。
「離して! このままじゃ託真が……」
涙声になっている。俺は更に強く抱き締めた。
それからしばらく経ったが、未だに痛みを感じることはない。何も起こらない。そして男の戸惑うような声が聞こえてきた。
「何だ、おまえら」
聞こえたのは男の意味不明な言動。この場所には俺たちしかいなかったはず。
「おまえら、邪魔すればどうなるかわかってんのか」
男の声の後、背後で数人の足音とうめき声が聞こえてきた。状況が掴めず後ろへと顔を向ければ、そこには複数の生徒が男を囲んでいた。
そこに一切の会話も躊躇いもなく、数人の男達は死角から、あるいは正面から暴れ続ける上級生の動きを封じようとしていた。立ち上る砂煙と、誰かの短くも苦痛の声だけがそこにはあった。
何が起こっているのか把握できるはずもなく、ただ茫然とその光景を眺めていれば、大丈夫ですか? と左側から声が掛けられた。声のした方を見ると、眼鏡をかけた線の細い男が立っていた。
「お怪我はありませんか?」
「……あんた達は?」
「僕は三年の栗崎と言います」
そう言って栗崎と名乗った男は頭を下げた。軽い会釈をして顔を上げると、微笑みが俺たちに向けられる。自分に危険がないことを強調するような微笑みだった。
「手遅れにならなくてなによりです」
栗崎の声はなんとも落ち着いたもので、出会いがこの場でなければ温厚で丁寧な人だと思っただろう。違和感があった。手遅れ、という言葉からは、少なくとも諍いがあったことを知っている。その場所で落ち着けることが不自然であり、不釣り合いだった。
微笑む栗崎から敵意は感じなく、同時に何を考えているのか読めない。ただ、今すぐに何かが起こる気配も感じなく、それよりも気になっているあの男へと視線だけを動かせば、そこには相変わらず数人の生徒が輪になり男と揉み合っていた。
いくら格闘経験者であっても、ルール無用の平地で複数人対一人では力の差は歴然となる。男の罵倒がどんどん少なくなっていっているのがその証拠だ。再び俺に向かってくる体力はもうないだろう、と栗崎に視線を戻す。
「もうお気づきかもしれませんが、一応紹介させてください。彼らは一度、穂乃香さんに想いを伝えた経験を持つ人です」
その事には少し前から気づいていた。だから余計に警戒しなければならなかった。
「僕らは俗に言う〝ファンクラブ〟のようなものでしょうか。特別何か目的があるわけではないですが、なんとなく集まった同志というところです。突然このようなことを言われても困るでしょうけど」
そう言って栗崎は少しだけ笑ったが、俺にはとても笑えるような話ではなかった。穂乃香の異常な人気は当然知っていても、ファンクラブなる団体が密かに作られているとこまでは把握できていなかった。
ある種、危険な存在だとも言える。更に一段階警戒を強めた俺の心情など知る由もない栗崎は、淡々と話を続けた。
「僕らがどうしてここにいるのか、それを説明する前に、今朝渡した手紙はお読みになりましたか?」
突然振られた質問に、なんのことを言っているのか一瞬見失ったが、そういえば、と夕貴から渡された手紙を思い出し、ポケットから取り出す。
「あんただったのか」
取り出した手紙には封がされている。読んだ方がいいのか、と手紙を向ければ栗崎は軽く首を振った。
「問題ありません。用件は片付きましたから」
そう言うと栗崎は笑みを引っ込めた。
「最近、穂乃香さん絡みの嫌な噂が耳に入りまして、その報告の話です」
「嫌な噂?」
「はい。〝あれ〟も噂の一人です」
そう言って栗崎は男へ視線を向ける。既に決着がついているらしく、数人の男の辺りは静かになっていた。
栗崎の言うことが本当なら、あの時に後回しにせず、手紙を読んでいれば穂乃香を怖がらせずにすんだかもしれない。悔やんでも悔やみきれないが、過ぎてしまえば後戻りはできない。だが、後悔が胸に残る。
「手紙の最後に少しお話が出来ないかと、放課後に待ち合わせ場所を書いたのですが、いつまでも姿が見えなく、何かあったのではないかと校内を探していた所、旧体育館近くで託真さんが争っているのを見つけて駆け付けた。そんなところです」
栗崎は場違いに落ち着いた様子で淡々と話を進めている。普通の神経の持ち主ではないと断言できる。一般的な生徒であれば関わりたくない状況。むしろ避けたいと思うのが普通だろう。でも、こいつらは積極的に関わってきた。それだけで〝普通〟ではない。
こういう争い事に慣れているのか、単純に度胸が据わっているのか、それとも空気が読めないのか。今はまだ判断できない。
「俺が手紙を読んでいない可能性なり、あえて無視しているとは考えなかったのか?」
そう言うと、栗崎は少し思案した様子で、
「穂乃香さん絡みで、託真さんが無視するとは思えなかったので」
栗崎の言い方は引っかかるが、同意せざるおえない。わざわざ遠回しに手紙を人伝に渡し、穂乃香の件も関わっているのであれば、見なかったことには出来ない。大したことではないとしても、顔を知っていて損はなく、告白の件がなければ呼び出された場所へ行っていたと思う。




