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ふれられないもの  作者: 柳
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穂乃香の周辺3

 

 衝撃は小さくなるものの、後ろへ下がったことで支えを失い、踏ん張れなければ体は軽くなる。咄嗟に腕でガードしても勢いは止まらず、そのまま受ける形となり、宙に浮いた男の体は一メートルほど吹き飛ばされていた。

 

 素早く穂乃香を背中に隠し、男に向き合う形で留まる。穂乃香に傷でもあればすぐにでも手当をしたいが、今はそうも言ってられない。男は俺よりも背が高く、なりより制服の上から盛り上がった筋肉が目につく。赤いネクタイ。上級生だ。


「いってえな……」


 男は肩を抑えながら起き上がる。向けられる瞳に宿っているのは俺への敵意以外のなにものでもない。


「誰かと思えば桜井兄か。いつもべったりくっついているっていう噂は本当らしいな」


 不意打ちの暴力に動じる様子はなく、男は平然としている。怯えも、困惑もない。こうした事態に少なからず慣れているだろう。あの一撃で引いてくれることを願っていたが、男は向かい合ったまま俺から目を離さない。厄介な相手だ、と思った。


「先に手を出してきたからには、覚悟、できてんだろうな?」


 指をポキポキと鳴らし、威嚇するように声を張り上げる。その姿は獣と区別つかない。


「まったく。お前みたいな野蛮な奴は、どうしてこうも力を見せつけることしか出来ないのか」


 ほんと、呆れて溜息しか出てこない。


「やるなら早くしろ。お前みたいな奴に時間を使いたくないんだ」

「上等だよ」


 男は血走った目をぎらつかせて、ゆっくり近づいてくる。


「知ってるか? 俺はボクシングやっててな、その筋じゃあ結構有名人なんだよ」


 頭に血が上って突っ込んでくるものかと思っていたが、男は意外にも冷静だった。度胸ともに戦い慣れしているのがわかる。


「本来なら素人を殴るのは禁止されているんだ。なんでかわかるか?」


 よほど余裕があるのか、そんなことを訊いてくる。勝手に話し出す男に付き合う義理はなく、答えるのも面倒。あからさまに無視しているのだが、それがわからないのか男は話し続ける。


「もしかしたら、殺しちまうかもしんないからだよ」


 そう言いながら男はへらへらと笑った。


「さっきからペラペラとうるさい奴だ。自慢話なら他の奴に言えばいい」


 再び男の顔つきが変わる。


「後悔するなよ」


 男が地面を蹴る。体付きに似合わず素早い動きに反応が遅れてしまった。


 男は眼前までスピードを緩めることなく少し身を屈めると、俺の腹部めがけて拳をねじ込んだ。鈍い衝撃が全身を覆い、身体がくの字に折れ曲がる。覚悟していても耐えられる一撃ではなかった。


 それで終わるわけもなく、間髪いれずに拳を振り下ろし後頭部を殴りつけられた。意識が一瞬途切れ、気が付いたときには地面に倒れた。


「たいした事ねえな」


 頭上から男の声が降ってくる。ああ、やられたのか。後頭部に違和感がある。体を動かそうとすると痺れる感覚があった。この感覚は久しぶりだった。しばらく安静にしていれば治まる程度の怪我だが、悠長に休んでいる時間はない。相手がこちらの都合に付き合ってくれる保証などないからだ。


 このまま倒れているわけにはいかない。痛みを無視して立ちあがると、両手を広げ男の前に立ちふさがる。反撃など出来る状態ではなかった。


「しつこいんだよ」


 立て続けに二発、三発と顔面を殴られた。再び意識がとびそうになる。ここで倒れるわけにはいかない。意識を保ちながら足を広げ踏張る。背後で穂乃香の声が聞こえた。心配そうな声で俺を呼んでいた。


「待ってろ。絶対にお前を守から」

「気取りやがって」


 そう吐きすて、男は続ける。


「終わりだ」


 大振りのストレート。これを受けたらさすがに終わる。全神経を向かってくる右腕一点に集中し、目がそれを捕らえると反射的に身体が反応した。


 通常ならダメージを負った状態では避けられないはずだったが、男は油断していた。俺が素人だからと、型を崩した大振りのストレートにしたことで反撃をあたえるチャンスをあたえていた。


 拳をかすめながらも懐に潜り込むことに成功し、力のかぎり顎下から拳を真上にたたき込んだ。男の身体が少しだけ宙に浮き、背中から地面に倒れた。


 一瞬の出来事だった。少しでも見誤ればこちらが倒れていた。息も絶え絶えの状態でも男から目を離さない。


 今のところ動く気配は無い。このまま動かなければ終わりになる。そう楽観的に考えたいものだが、手応えをあまり感じなかった。そして、予想したとおり男はまだのびていない。


 荒い呼吸を整え、口の端から流れる血を袖で拭い、立ち上がる男を睨み付ける。顎をさすり首をゆっくりと回すと、へっと舌を出し余裕の顔を見せる。


「ボクサーてのはさ、打つだけじゃないんだぜ。打たれ強くもなるのさ」


 何の為にもならない自慢話など聞いても無駄だと、喋ている最中に背を向けた。隙を見せるべきではないが、最悪の状況を想定しなければならない。


 何よりも優先されるのは穂乃香の身の安全であり、校舎の中に入ってしまえば人目もある。職員室に逃げ込んでもいいし、知り合いがいるのであれば助けてもらえばいい。だから離れるように言ったのだが、穂乃香は首を振るばかり。


 自分だけ逃げるような真似は出来ないのだろう。ならばと、誰かを呼んできてくれ、とお願いすれば、穂乃香は渋々といった感じで駆け出して行った。


 その後ろ姿が見送り、再び男と対面した。無視されていたことが余程ご立腹なのか、額に青筋を浮かべていた。


「今度こそ殺す」


 男が威勢よく踏み出せば、すとんと膝が崩れた。手応えは感じられなかったが、少なからずダメージは残っているらしい。


 男は舌打ちをして、ふらつく自分の足を強く殴り付けた。風貌はチンピラのそれだが、構えに反射速度、重心移動の素早さは経験者でなければ身に着けられない。


 口だけの男は散々見てきたが、この男はそこらの雑魚とは明らかに異なる。ゆっくりと立ち上がった男は二度、三度地面を蹴った。


「みとめてやるよ。お前は素人にしては強いほうだ」


 男が俺を見る。最初に向かい合った時とは別人のような覚悟の据わった瞳していた。余裕の表情は消え、ふうっと吐いた息には緊張感を纏っている。


「今度は容赦しない」


 僅かに腰を落とし、身体の前に腕を構える。

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